イザヤ53章1~12節、詩篇40篇7~18節、ヘブル10章1~4節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。
53:9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。
53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

詩篇 40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。
40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
40:11 恵みの御業を心に秘めておくことなく 大いなる集会であなたの真実と救いを語り 慈しみとまことを隠さずに語りました。
40:12 主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく 慈しみとまことによって いつもわたしをお守りください。
40:13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ 何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く わたしは心挫けています。
40:14 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。
40:15 わたしの命を奪おうとねらっている者が 恥を受け、嘲られ わたしを災いに遭わせようと望む者が 侮られて退き
40:16 わたしに向かってはやし立てる者が 恥を受けて破滅しますように。
40:17 あなたを尋ね求める人が あなたによって喜び祝い、楽しみ 御救いを愛する人が 主をあがめよといつも歌いますように。
40:18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。

ヘブル 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。


会社や組織などでトラブルが生じたり、問題が発生した時など、何が原因だったのか、誰の責任だったのかといって追及を重ね、結果、責任ある立場に立つ人が何等かの責任を取る、といったことを耳にすることがある。
しかし、多くの場合、問題の原因とか責任の所在とか、一つや二つとかではなく、複雑にからんでいるものであろうし、簡単に見つけられるようなものではないはずである。
それなのに、人は意外にも単純な理由や原因を決めつけて、それを処罰して終わろうとする。
仮に、責任ある立場の者が辞めても、何ら良いことは無いし、かえって前より状態は悪くなるだけかもしれないのに。
責任を明確にし、改善できるもののならば、とっくにできているはずなのだろう。
しかし、人の世で起きていることは、そう単純なものではない。
どうにもならないこともある。
一つ、二つ、犠牲を支払ったところで、それで何になるというのだろう。
昔、日本でも「人柱」といった言葉があるように、人の命を犠牲に捧げることで、神の怒りを静めようとするようなことも行われていたようであるが、それで何かが変わるのだろうか。
ただ、一人の人間が死んで終わり、無力で、なんの力も持たない人間が一人犠牲となるだけであろう。
しかし、聖書に記されていることは、この世界を創り、何でもおできになるお方、真の神ご自身が、私たち人間を救うために、御子イエス様の命を犠牲とされたということである。
全能の主なる神ご自身の命がささげられているのだ。
これ以上、価値のあるものはないだろう。
それほどに、私たちの救いは完全かつ永遠となるのである。
何らかの問題が起きた時、その責任を誰かに押し付けて、その人を滅ぼすような行動は、もう辞めにしてほしい。
正しいことと悪いことの区別は必要だが、誰に人を裁く権利があるというのだろう。
イエス様が命がけで愛し、赦されたように、人を赦し、生かしていくことのできる社会を目指していきたいものである。