イザヤ49章13~23節、詩篇148篇、マタイ18章1~14節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 49:13 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。
49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。
49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。
49:16 見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。
49:17 あなたを破壊した者は速やかに来たが あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る。
49:18 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい 花嫁の帯のように結ぶであろう。
49:19 破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は 彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。
49:20 あなたが失ったと思った子らは 再びあなたの耳に言うであろう 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。
49:21 あなたは心に言うであろう 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか わたしは子を失い、もはや子を産めない身で 捕らえられ、追放された者なのに 誰がこれらの子を育ててくれたのか 見よ、わたしはただひとり残されていたのに この子らはどこにいたのか、と。
49:22 主なる神はこう言われる。見よ、わたしが国々に向かって手を上げ 諸国の民に向かって旗を揚げると 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
49:23 王たちがあなたのために彼らの養父となり 王妃たちは彼らの乳母となる。彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し あなたの足の塵をなめるであろう。そのとき、あなたは知るようになる わたしは主であり わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

詩篇 148:1 ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
148:2 御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
148:3 日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
148:4 天の天よ 天の上にある水よ主を賛美せよ。
148:5 主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
148:6 主はそれらを世々限りなく立て 越ええない掟を与えられた。
148:7 地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
148:8 火よ、雹よ、雪よ、霧よ 御言葉を成し遂げる嵐よ
148:9 山々よ、すべての丘よ 実を結ぶ木よ、杉の林よ
148:10 野の獣よ、すべての家畜よ 地を這うものよ、翼ある鳥よ
148:11 地上の王よ、諸国の民よ 君主よ、地上の支配者よ
148:12 若者よ、おとめよ 老人よ、幼子よ。
148:13 主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。
148:14 主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。

マタイ 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:11 人の子は、失われたものを救うために来た。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」



残念なことではあるが、クリスチャンの集まる教会においても、つまづきは生じてしまう。
むしろ、相手に期待してしまうがゆえに、期待し過ぎてしまうがゆえに、かえってつまづきとなることも多い。
しかし、クリスチャンといえども、所詮、同じ人間であり、罪人である。
もちろん、だからと言って、何も期待してはいけないとか、全てを疑ってかかれとかではないけれども「相手も同じ人間なのだ」ということを忘れてはならないし、本当に期待すべき方、信頼すべき方がどなたであるのか、見誤ってはならないということであろう。
私たちを決して裏切らないお方は、私たちの救いのために十字架で死んで下さったイエス様だけである。
イエス様のなさったような御業は、どんな人間にもできないことであり、だからこそ、神の子イエス様が私たちの代わりにそれをなさったのである。
つまづきを与えたくはないが、つまづきを全く与えないように生きていくのは難しい。
けれど、そのことを知っているだけでも随分違うのではないだろうか。
「ああ、この人も私と同じ人間なんだなあ」と思えた時、そこにはほんのわずかながら、イエス様の愛に通じる優しさが芽生えている。
本当はそういうことが大切なのだろう。

ヨハネ15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

私たちには自分の命を捨てるようなイエス様のような大きな愛の御業を行う事はできないが、「この人のためにもイエス様は死んで下さったんだなあ」ということを覚えつつ、ほんのわずかでもいいから優しい心や配慮などを忘れないように努め、それでもつまづきを与えてしまったのなら、謝る勇気を持ち、和解をもたらす主が働いて下さることを祈ろう。
主なる神様は、全ての人を愛し、命がけで愛し、私たちの間に愛が実現していくことを望んでおられるお方であるということを私たちは知っているのだから。

1ヨハネ4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。