イザヤ33章17~22節、ルカ1章47~55節、黙示22章6~7,18~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 33:17 あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ 遠く隔たった地を見る。
33:18 あなたの心はかつての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか 量った者はどこにいるのか やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。
33:19 あの傲慢な民をあなたはもはや見ない。その民の唇は重くて聞き分けることができず 舌はどもるので理解しえなかった。
33:20 シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい 移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく 一本の綱も断たれることはない。
33:21 まことに、そこにこそ 主の威光は我らのために現れる。そこには多くの川、幅広い流れがある。櫓をこぐ舟はそこを通らず 威容を誇る船もそこを過ぎることはない。
33:22 まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。

ルカ 1:47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

黙示 22:6 そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。
22:7 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。


本日与えられている日課の箇所は、いわゆるマリアの賛歌と呼ばれるマリアの祈りの言葉である。
主なる神様を、マリアを救い主イエス様の母として選ばれ、マリアは主の約束通りイエス様を産む。
しかし、そのことや、その後イエス様がなさることについては、これから起きることであり、当然ながら、マリアの身にもまだ何も起きていない。
天使の御告げはあったものの、マリアはその言葉を信じたに過ぎない。
しかし、信仰とはそういうものである。

ヘブル11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

目に見える証拠や、事実を証明できる知恵の言葉などもないかもしれない。
けれど、私たちには聖書の言葉がある。
聖書に約束された神の救いの言葉、そして、そこに現わされている神の愛と恵みを、信じて受け止めて、幸いのうちに生きようではないか。
それがマリアの賛歌から学べることである。