列王記下 18:9 ヒゼキヤ王の治世第四年、イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第七年に、アッシリアの王シャルマナサルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、
18:10 三年後に占領した。サマリアが占領されたのは、ヒゼキヤの治世第六年、イスラエルの王ホシェアの第九年であった。
18:11 アッシリアの王はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々にとどまらせた。
18:12 こうなったのは、彼らが自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった。
18:13 ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。
18:14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。
18:15 ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。
18:16 またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。
18:17 アッシリアの王は、ラキシュからタルタン、ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来て、布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。
18:18 彼らは王に呼びかけると、ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアが彼らの前に出て行った。
詩篇 101:1 ダビデの詩。賛歌。 慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。
101:3 卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず
101:4 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。
101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
101:6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。
101:7 わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。
101:8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。
1テモテ 4:6 これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
4:7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
4:8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
4:9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
4:10 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。
4:11 これらのことを命じ、教えなさい。
4:12 あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
4:13 わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。
4:15 これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
4:16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
テモテはまだ歳も若かったようであるし、年長者たちが大勢いる中では、多少気後れすることもあったのだろう。
そんなテモテに対し、パウロは、臆することなく御言葉の朗読と勧めと教えに専念するよう勧めている。
御言葉を語ることは、神がすでに成し遂げられた救いの言葉、聖書の言葉を語ることによるため、語る人がどういう人であるかということは問題ではない。
もちろん、人はその人がどういう人かということは見ているし、気にもすることだろう。
しかし、語られる御言葉は、誰が語ろうと神の御言葉をそのまま語るならば、神の言葉なのである。
「恵みの賜物」とは、そういうことである。
その人の性格であるとか、能力であるとか、努力であるとか、そういったことに左右されるのではなく、神が私たちに与えて下さった救いの恵みを語るだけである。
だから、恵みの言葉は、誰が語っても良い。
ただ、それがきちんと神の恵みを解き明かしていくことは大切であるが、聖書の御言葉をそのまま語るだけでも成り立つことである。
御言葉を語る人や解き明かす人がいなくても、共に朗読するだけでも、そこに神の御言葉が語られることになるし、そういった機会を大切にしていきたいものである。