エゼキエル20章1~17節、詩篇109篇21~31節、ヘブル3章7節~4章11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 20:1 第七年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために来て、わたしの前に座った。
20:2 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。
20:3 「人の子よ、イスラエルの長老たちに語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちはわたしの意志を問うために来たのか。わたしは生きている。お前たちが尋ねても、わたしは答えない、と主なる神は言われる。
20:4 あなたは彼らを裁くのか。人の子よ。彼らを裁くのなら、彼らの先祖たちの行った忌まわしいことを彼らに告げなさい。
20:5 彼らに言いなさい、と主なる神はこう言われる。わたしがイスラエルを選んだ日に、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせたとき、彼らに誓って、わたしはお前たちの神、主であると言った。
20:6 その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。
20:7 わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。
20:8 しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった。そこで、わたしは言った。『わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、エジプトの地でわたしの怒りを浴びせる』と。
20:9 しかし、わたしはわが名のために、彼らがその中に住んでいる諸国民の目の前では、わが名を汚すことがないようにした。その諸国民の目の前で、わたしはイスラエルをエジプトの地から導き出して、わたしを示したのである。
20:10 わたしは、彼らをエジプトの地から連れ出し、荒れ野に導いた。
20:11 そして、彼らにわたしの掟を与え、わたしの裁きを示した。人がそれを行えば、それによって生きることができる。
20:12 また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。
20:13 しかし、イスラエルの家は荒れ野でわたしに背き、人がそれを行えば生きることができるわたしの掟に歩まず、わたしの裁きを退け、更に、わたしの安息日を甚だしく汚した。それゆえ、わたしは荒れ野で、憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを滅ぼし尽くそうとした。
20:14 しかし、わが名のために、わたしがイスラエルを連れ出したときに見ていた諸国民の前で、わが名を汚すことがないようにした。
20:15 ただし、荒れ野で彼らに誓い、わたしが与えた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に、彼らを導き入れることはしないと告げた。
20:16 それは、彼らがわたしの裁きを退け、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。
20:17 それでも、わたしの目は彼らを憐れんで、彼らを滅ぼさなかった。彼らを荒れ野で滅ぼし尽くすことはしなかった。

詩篇 109:21 主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください。
109:22 わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。
109:23 移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます。
109:24 断食して膝は弱くなり からだは脂肪を失い、衰えて行きます。
109:25 わたしは人間の恥。彼らはわたしを見て頭を振ります。
109:26 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください。
109:27 それが御手によることを、御計らいであることを 主よ、人々は知るでしょう。
109:28 彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが あなたの僕は喜び祝います。
109:29 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし 恥を上着としてまとうでしょう。
109:30 わたしはこの口をもって 主に尽きぬ感謝をささげ 多くの人の中で主を賛美します。
109:31 主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます。

ヘブル 3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
3:8 荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。
3:9 -10荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』
3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」
3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」
3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。
3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。
3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、
4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。



本日の日課のヘブル書の箇所には「安息」という言葉が多数用いられている。
おおむね「救い」という言葉ど同義のように用いられており、救いにあずかることで心からの平安と喜びを得ることができるために「安息」という風に語られているのだろう。
救いとは安息にあずかることである。
ならば、安息日とは、救いに与る日、もしくは、救いに与っていることを覚える日と捉えるべきであろう。
エゼキエル書の箇所でも20章11節に「また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。」と語られているように、安息日とは主なる神様が私たちを聖別されたことを覚えるためにある。
もちろんそれは、週に一度だけでなくても、毎日覚えることができるし、いつでも安息にあずかることはできる。
人は生きてくために必死になるし、どうにかして、自分の力で生きて行こうとしてしまうが、私たち人間には、自分の罪をどうすることもできないし、自分の命を救うこともできない。
ただただ、神の憐れみと恵みによる救いの約束でしか、私たちを救う方法はないのである。
イエス様はそのためにこの世に来られ、そして十字架で死に、復活された。
イエス様の贖いの御業がなければ、私たちは永遠に滅びの中に落ちたままだった。
そこから主なる神様が私たちを「聖別」し、救い出して下さったのである。
この喜びと平安を感謝する時、それが安息日になすべきことと言えよう。
ともすると、日々の生活のこまごまとしたことに心を囚われ、滅びゆく世界の罠に足元をすくわれ、恐れと不安の中に立ち尽くしているような私たちではあるが、こんな小さな愚かなものにも目を留め、声をかけ、呼び出して下さり、贖い出して下さった主を感謝し、賛美を歌をうたいたい。