エステル5章1~14節、詩篇55篇17~24節、コロサイ2章16節~3章1節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エステル 5:1 それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入り口に向かって王座に座っていた。
5:2 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。
5:3 王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
5:4 エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」
5:5 王は、「早速ハマンを来させなさい。エステルの望みどおりにしよう」と言い、王とハマンはエステルが準備した酒宴に赴いた。
5:6 王はぶどう酒を飲みながらエステルに言った。「何か望みがあるならかなえてあげる。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」
5:7 「私の望み、私の願いはと申しますと」とエステルは言った。
5:8 「もし王のお心に適いますなら、もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いをお聞き入れくださるのでございましたら、私は酒宴を準備いたしますから、どうぞハマンと一緒にお出ましください。明日、仰せのとおり私の願いを申し上げます。」
5:9 この日、ハマンはうきうきと上機嫌で引き下がった。しかし、王宮の門にはモルデカイがいて、立ちもせず動こうともしなかった。ハマンはこれを見て、怒りが込み上げてくるのを覚えた。
5:10 だが、ハマンは自制して家に帰った。彼は使いを送って親しい友達を招き、妻のゼレシュも同席させた。
5:11 彼は、自分のすばらしい財産と大勢の息子について、また王から賜った栄誉、他の大臣や家臣にまさる自分の栄進についても余すことなく語り聞かせた。
5:12 ハマンは更に言った。「その上、王妃エステルは御自分で酒宴を準備され、王をもてなされたが、王のお供として誰をお望みになったかと言えば、このわたしだけだった。明日もまた王と御一緒することになっている。
5:13 だが、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイを見るたびに、そのすべてがわたしにはむなしいものとなる。」
5:14 妻のゼレシュは、ハマンの親しい友だちと口をそろえて言った。「五十アンマもある高い柱を立て、明朝、王にモルデカイをそれにつるすよう進言してはいかがですか。王と一緒に、きっと楽しく酒宴に行けます。」ハマンはこの言葉が気に入り、柱を立てさせた。

詩篇 55:17 わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。
55:18 夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。
55:19 闘いを挑む多くの者のただ中から わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。
55:20 神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。神はいにしえからいまし セラ 変わることはない。その神を畏れることなく
55:21 彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。
55:22 口は脂肪よりも滑らかに語るが 心には闘いの思いを抱き 言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。
55:23 あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。
55:24 神よ、あなた御自身で 滅びの穴に追い落としてください 欺く者、流血の罪を犯す者を。彼らが人生の半ばにも達しませんように。わたしはあなたに依り頼みます。

コロサイ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


新約聖書の時代のイスラエルの人たちは、かつて自分たちの先祖が神の戒めをないがしろにし、その結果、国が滅び、バビロンへ捕囚として捕らえられていったと考え、バビロン捕囚からの解放後は、やたら律法の戒めを守る事を重視するようになっていった。
このため、どれだけ律法の戒めを守っているかといったことだけに関心を持つようになり、どれだけ善行を行っているかといったことを、競うように他人に見せるための「偽善」に系統していったのである。
聖書に登場する律法学者やファリサイ人たちというのが、まさにそういった人たちであった。
しかし、そうした人間の業によって救いが実現するという考え方は、聖書が語るところの神の御子キリストの十字架の贖いによって罪赦され救われるという恵みの約束とは、真っ向から対立する考え方であり、むしろ、人間の罪を助長するような害悪なものと言える。
人がどんなに善い行いを行っても、それによって救いが実現するわけではない。
もちろん、善き業自体が悪いわけではないが、人間とは弱く、罪深いものであるから、どんなに善き業のように見えても、人はそれによって自分に酔い、驕り、ついには他人を見下し、裁くようになっていく。
人が無しうる最善の良き業とは、私たちの救いのために御子イエス様の命を差し出してまでして示して下さった神の愛を知る事にある。
全てはそこから始まらなければ、どんな良き業も空しいものとなるだろう。
肉の欲に支配されたままの善き業に走ることなく、神に愛された者として担える本当の善き業に導かれていきたいものである。