箴言19章1~17節、詩篇25篇11~20節、1ヨハネ3章11~17節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言 19:1 貧乏でも、完全な道を歩む人は 唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
19:2 知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。
19:3 人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。
19:4 財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される。
19:5 うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。
19:6 高貴な人の好意を求める者は多い。贈り物をする人にはだれでも友になる。
19:7 実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる。彼らは言っていることを実行しようとはしない。
19:8 心を得た人は自分の魂を愛する。英知を守る人は幸いを見いだす。
19:9 うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。
19:10 愚か者に快楽はふさわしくない。奴隷が君主を支配するのは、なおふさわしくない。
19:11 成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。
19:12 王の憤りは若獅子のうなり声。王の好意は青草におく露。
19:13 愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。
19:14 家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。
19:15 怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。
19:16 戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。
19:17 弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。

詩篇 25:11 主よ、あなたの御名のために 罪深いわたしをお赦しください。
25:12 主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
25:13 その人は恵みに満たされて宿り 子孫は地を継ぐであろう。
25:14 主を畏れる人に 主は契約の奥義を悟らせてくださる。
25:15 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。
25:16 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
25:17 悩む心を解き放ち 痛みからわたしを引き出してください。
25:18 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。
25:19 御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。
25:20 御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し 恥を受けることのないようにしてください。

1ヨハネ 3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。




富に対する欲望や、自分さえ良ければ良いといった自己中心的な生き方は、その人の人生はおろか、時にまわりの人々の人生をも狂わせてしまう。
カインは自分の兄弟アベルを妬み、人類最初の人殺しを犯している。
いつの時代も、人間の行いは変わらず、あいかわらず人間の社会の中ではこうしたいさかいが絶えない。
イエス様は、どの律法が一番重要かとの問いに対し「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」「隣人を自分のように愛しなさい」との二つの戒めが重要であると答えられている。

マタイ2:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

これらの戒めは「律法」である、ということを考えるなら「あなた方はそれを守るべし」という事よりも「この戒めのもとには全ての人が必ず罪を犯していることに気が付くべし」という事の方がウェイトを占めているのではないかと思うなら、誰一人、これらの戒めは守れていないし、最も破られやすい戒めなのだということを示していると言えるのではないだろうか。
全ての人が、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛することはできないし、隣人を愛することができない、それが私たち人間の現実である。
確かに聖書は、神が私たちを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うべき、と語られているが、それができない自分をきちんと見つめなおし、それでもなお、主イエス様がこんな愛のないものを赦し、救って下さった事実に自分の身を置いたうえで、神と隣人に対してどう生きていくべきか、難しい問題であるけれども、それが問われているのだろう。
大きなことができなくてもいい。
顔を合わせ、笑顔で挨拶するだけでもいい。
イエス様に赦された者、愛されている者として、ほんの些細な事でもいい、小さな愛の業でもいいから、示されたところで、一つ一つ、イエス様と共に歩んでいきたいものである。