サムエル下1章4~27節、詩篇133篇、使徒11章27~30節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル下 1:4 「状況はどうか。話してくれ」とダビデは彼に言った。彼は言った。「兵士は戦場から逃げ去り、多くの兵士が倒れて死にました。サウル王と王子のヨナタンも亡くなられました。」
1:5 ダビデは知らせをもたらしたこの若者に尋ねた。「二人の死をどうして知ったのか。」
1:6 この若者は答えた。「わたしはたまたまギルボア山におりました。そのとき、サウル王は槍にもたれかかっておられましたが、戦車と騎兵が王に迫っていました。
1:7 王は振り返ってわたしを御覧になり、お呼びになりました。『はい』とお答えすると、
1:8 『お前は何者だ』とお尋ねになり、『アマレクの者です』とお答えすると、
1:9 『そばに来て、とどめを刺してくれ。痙攣が起こったが死にきれない』と言われました。
1:10 そこでおそばに行って、とどめを刺しました。倒れてしまわれ、もはや生き延びることはできまいと思ったからです。頭にかぶっておられた王冠と腕につけておられた腕輪を取って、御主人様に持って参りました。これでございます。」
1:11 ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。
1:12 彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。
1:13 ダビデは、知らせをもたらした若者に尋ねた。「お前はどこの出身か。」「わたしは寄留のアマレク人の子です」と彼は答えた。
1:14 ダビデは彼に言った。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」
1:15 ダビデは従者の一人を呼び、「近寄って、この者を討て」と命じた。従者は彼を打ち殺した。
1:16 ダビデは言った。「お前の流した血はお前の頭に返る。お前自身の口が、『わたしは主が油を注がれた方を殺した』と証言したのだから。」
1:17 ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、
1:18 「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。
1:19 イスラエルよ、「麗しき者」は お前の高い丘の上で刺し殺された。ああ、勇士らは倒れた。
1:20 ガトに告げるな アシュケロンの街々にこれを知らせるな ペリシテの娘らが喜び祝い 割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。
1:21 ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。勇士らの盾がそこに見捨てられ サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている。
1:22 刺し殺した者たちの血 勇士らの脂をなめずには ヨナタンの弓は決して退かず サウルの剣がむなしく納められることもなかった。
1:23 サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人 鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも 二人が離れることはなかった。
1:24 泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ お前たちの衣の上に 金の飾りをおいたサウルのために。
1:25 ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。
1:26 あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。
1:27 ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。

詩篇 133:1  都に上る歌。ダビデの詩。 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
133:2 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
133:3 ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。

使徒 11:27 そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。
11:28 その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると"霊"によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。
11:29 そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。
11:30 そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。



サウルの死をダビデに伝えた若者は、自らの手でサウルの息の根を止めたことを責められ、ダビデの命によって処刑されてしまう。
なんとも残念な出来事であるが、ダビデにとってはサウルとその子ヨナタンは神に選ばれた愛すべき方と受け止めていたからであろう。
ダビデの行為は決してほめられたものではないが、神に召された者に対する畏れと尊敬の念を持つことは大切なことと言えるだろう。
一方、サウルがダビデの命を狙っていたことも事実であり、そのサウルが亡くなったという知らせは、ダビデにとっては喜ばしい知らせでもあったはずである。
少なくとも、ダビデのもとに知らせに走った若者は、きっとダビデが喜んでくれるに違いないと思い、急ぎダビデのもとに向かって行ったはずである。
まさかこのような悲劇になろうとは自分でも思っていなかったであろうが、彼は純粋にダビデが喜ぶ姿だけを願っていたはずである。
人間の世界には、こうした行き違いや悲劇は避けられないが、サウルの死と、そのことを伝えた若者の行為は、イエス様の十字架の出来事と福音の宣教の働きを予表するものと言えるだろう。
自分の脅威となるものが取り除かれたのだから、それは喜ばしい知らせであり、一刻も早く伝えたいと思うのは道理。
しかし、そのために、神に召された愛すべきお方の命が犠牲となっているという事実。
喜ばしい知らせを伝えたものが歓迎されないのも、さけることのできない、この世の仕組みなのかもしれない。
それでも伝えずにはいられないし、事実は事実として明らかにされるべきであろう。
神に選ばれし尊ばれるお方が、私の命を救うために死なれ、その知らせは、たとえ受け入れられなくても伝えずにはいられない。
喜ばしい知らせなのだから。