エゼキエル 1:26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。
1:27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。
1:28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
2:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
詩篇 121:1 都に上る歌。 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
121:3 どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。
121:4 見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
121:5 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
121:6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
121:7 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
121:8 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
使徒 26:1 アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。
26:2 「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。
26:3 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。
26:4 さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。
26:5 彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。
26:6 今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。
26:9 実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。
26:11 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
26:12 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、
26:13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。
26:14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。
26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
主なる神様は、エゼキエルに対しても、そしてパウロに対しても「自分の足で立て」と命じられている。
私たちは、全てのことは神のおゆるしのもと、神の御業だけがなると信じ、あたかもすべてのことを主なる神が行っているように考えがちである。
しかし主なる神様は、私たちにも「自分の足で立て」と仰せられるのだ。
もちろん、神のおゆるしなしには人は生きてはいけないし、神の御心だけが成ると私たちも信じてはいるが、だからと言って自分からは何もせず、ただ黙って事の成り行きを見ているだけではいけないのであろう。
そうではなく、神がわたしをこの地に生かしておられる意味が必ずあるのだから、私にできること、私にしかできないことを担っていくことが大切なのだろう。
もちろんそれは、他者に強いられてでもなく、神に出会い、神の愛への応答として、自発的になされていくものであろう。
自分の性格や、これまで経験してきたことも、きっと何か意味があるのだろう。
パウロも、無駄に反発していたわけではなく、かつての熱心さがあってこその彼らしい働きへと昇華していったはずである。
私のこれまでの人生における経験も、たとえそれが用いられなかったとしても、それらの経験を経てきたからこそわかること、感じること、できることがきっとあるだろうし、イエス様の十字架によって罪赦された者として、「自分の足で立つ」生き方を続けていきたいものである。