サムエル上17章1~23節、詩篇150篇、使徒5章12~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル上 17:1 ペリシテ人は戦いに備えて軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集結し、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を張った。
17:2 一方、サウルとイスラエルの兵も集結し、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ軍との戦いに備えた。
17:3 ペリシテ軍は一方の山に、イスラエル軍は谷を挟んでもう一方の山に陣取った。
17:4 ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、
17:5 頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、
17:6 足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。
17:7 槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。
17:8 ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。
17:9 その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」
17:10 このペリシテ人は続けて言った。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」
17:11 サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。
17:12 ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。
17:13 エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、
17:14 ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出ていたが、
17:15 このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。
17:16 かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。
17:17 さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。
17:18 このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」
17:19 サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。
17:20 ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところだった。
17:21 イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。
17:22 ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。
17:23 彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアトという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。

詩篇 150:1 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
150:4 太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
150:5 シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

使徒 5:12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
5:13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
5:14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
5:15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
5:16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。


共同体というものは、いろんな人が集まり、それぞれ個性や賜物も違っていても、同じ思い、一つの心となることで、協力して働きを全うしていくことができる。
教会とはそういうところであろう。
キリストを頭として、キリストに救われた人たちが、キリストの御心に従って、それぞれ担えるところを担っていく。
誰も他の人を妬んだり、批判したりしない。
あたかも一人の人間が自分のからだの一部を批判したり、打ち叩いたりしないのと同じである。
疲れた時は体を休めるし、元気な時は、どこへ行くにも、何をするにも一緒で、共に喜び、共に悲しみ、共に感謝をささげていく。
どの働きが尊くて、どの働きがいやしいなどといったことはない。
キリストと共にあるなら、どんな働きでも尊い。
「こうあらねばならない」とか「どしてそんなことをするのか」といった思いは捨てて「主の祝福がありますように」と共に祈るものでありたいものである。