創世記44章18~34節、詩篇37篇1~11,39~40節、ルカ12章57~59節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 44:18 ユダはヨセフの前に進み出て言った。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから。
44:19 御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、
44:20 そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。
44:21 すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じになりました。
44:22 わたしどもは、御主君に、『あの子は、父親のもとから離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』と申しましたが、
44:23 あなたさまは、『その末の弟が一緒に来なければ、再びわたしの顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました。
44:24 わたしどもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君のお言葉を伝えました。
44:25 そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、
44:26 『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかぎり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。
44:27 すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。
44:28 ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。
44:29 それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。
44:30 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、
44:31 この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
44:32 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。
44:33 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

詩篇 37:1  ダビデの詩。 悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
37:2 彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
37:3 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
37:4 主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
37:6 あなたの正しさを光のように あなたのための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる。
37:7 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。
37:8 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
37:9 悪事を謀る者は断たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
37:10 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。
37:11 貧しい人は地を継ぎ 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

ルカ 12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」


創世記の箇所には、ベニヤミンだけをエジプトに留まらせようとしたヨセフに対し、これまでの経緯を丁寧に話し、彼らの父ヤコブがベニヤミンのことをことさら可愛がっている事を伝え、ベニヤミンを父から引き離すことはできないことをヨセフに理解してもらおうと必死に訴えている姿が描かれている。
ユダは、ベニヤミンのことも父ヤコブのことも心配し、彼らを死なせるわけにはいかないと考えていたはずである。
しかし、ユダもヤコブの子であり、ベニヤミンとは同じ血のつながった兄弟である。
父ヤコブがベニヤミンだけを可愛がっていることに対し、どこかで受け入れがたい気持ちを抱いていてもおかしくはない。
もともと父ヤコブが自分たちよりヨセフを可愛がっていたことも、ヨセフへの妬みとなり、ヨセフをエジプトへ売り渡してしまうことになったこともあり、ユダとしては、自分たちの罪を思い知らされると同時に、父ヤコブのヨセフやベニヤミンに対する偏愛ぶりに悩まされ続けていたのであろうと思う。
それでもユダは、父ヤコブのために父の愛するベニヤミンをなんとしても助けたいとの一心で、必死で訴えていたのであろう。
ユダのとりなしの姿は、イエス様のとりなしの姿にも通じるものがある。
イエス様も、御自分が神に見捨てられ、十字架にはりつけにされて殺されるであろうことをご存知であった。
しかも、十字架で死なれるのは、我々の罪人の身代わりとなるためである。
どんなに理不尽なことであろう。
しかし、イエス様は、一切の妬みや恨みといった感情を表すことなどなく、むしろ、なんとしても我々を助けたい、救いたいと、ただそれだけを願われて、十字架で死んでいかれたのである。
もちろん、ユダたちの場合は、自分たちの犯した過ちのゆえになさねばならないことであったが、イエス様の場合は全く違う。
イエス様は何一つ罪など犯してはいないのに、我々罪人を救うために、御自分の命を犠牲にして下さった、まことに愛のお方であられる。
それほどの愛によって救われた者であることを覚えて、イエス様のとりなしの姿を覚えつつ、感謝を持って生きていきたい。