ネヘミヤ5章1~13節、詩篇19篇、ルカ2章39~52節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ネヘミヤ 5:1 民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった。
5:2 ある者は言った。「わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。」
5:3 またある者は言った。「この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。」
5:4 またある者は言った。「王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。
5:5 同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものだ。」
5:6 この嘆きと訴えを聞いて、わたしは大いに憤りを覚え、
5:7 居たたまれなくなって貴族と役人をこう非難した。「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか。」わたしはまた大きな集会を召集して、
5:8 言った。「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できるかぎり買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」彼らは黙りこみ、何も言えなかった。
5:9 わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。
5:10 わたしも、わたしの兄弟も部下も金や穀物を貸している。わたしたちはその負債を帳消しにする。
5:11 あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい。畑も、ぶどう園も、オリーブ園も、家も、利子も、穀物も、ぶどう酒も、油も。」
5:12 彼らはそれに答えた。「返します。何も要求しません。お言葉どおりにします。」わたしはこの言葉どおり行うよう誓わせるために祭司たちを呼んだ。
5:13 わたしはまた衣の折り重ねたところを振るいながら言った。「この約束を守らない者はだれでも、このように神によってその家と財産から離され、振るい落とされるように。このように振るい落とされて無一物となるように。」会衆は皆で、「アーメン」と答え、神を賛美した。民はその言葉どおり行った。

詩篇 19:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19:2 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように 勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち 天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し 支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

ルカ 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


子どもというのは、親が思っている以上にいろんなことを見て学び、考え、そして成長している。
12歳になられたイエス様も、いなくなった事を心配した両親がゆくえを捜しながらエルサレムまでの道のりを引き返したが、イエス様はエルサレムの神殿で学者たちと対等に議論し合っていたのである。
大人顔負けというか、もはや大人である。
もちろん、イエス様は特別なところもあるが、やはり私たちと同じ人間として生きられたから、両親が心配するのも当然であろう。
ただ、子どもは親の所有物でもないし、一人の人格を持った人間である。
思いも、考えも、感情も、全て大人と変わらず「持っている」のだ。
それをどれだけ尊重し、支援していけるか、それが親の務めなのだろう。

先日は、同世代の子らを持つ親の立場の人たちと、この春の進路のことやそれにまつわる費用のことなどについて、立ち話程度に話した。
どこのご家庭も、子どもの夢や希望をかなえるために、なんとかしてあげたいと考えて工面しておられる。
しかし、限られた予算の中でやり繰りしながら、全てを適えていくというのは難しい。
能力や予算の折り合いのつくところで、子供らと話し合いながら落としどころを探っていくしかない。
十分なことをしてやれなくて申し訳ないという思いもあるが、子供らからは意外にも感謝している言葉や様子を伺う事ができる。
大切なことは、自分の都合や子どもの都合だけを優先するのではなく、誠実に話し合い、愛を持って接すること、なのだろう。
親も子どもも、同じ神に愛された一人の人間である。
同じ家族として、愛を持って共に生きていく人として、この世に生を与えられたことを感謝したいものである。