民数記16章1~19節、イザヤ11章1~9節、ヘブル13章7~17節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

民数記 16:1 さて、レビの子ケハトの孫でイツハルの子であるコラは、ルベンの孫でエリアブの子であるダタンとアビラム、およびペレトの子であるオンと組み、
16:2 集会の召集者である共同体の指導者、二百五十名の名のあるイスラエルの人々を仲間に引き入れ、モーセに反逆した。
16:3 彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」
16:4 モーセはこれを聞くと、面を伏せた。
16:5 彼はコラとその仲間すべてに言った。「主は明日の朝、主に属する者、聖とされる者を示して、その人を御自身のもとに近づけられる。すなわち、主のお選びになる者を御自身のもとに近づけられる。
16:6 次のようにしなさい。コラとその仲間はすべて香炉を用意し、
16:7 それに炭火を入れ、香をたいて、明日、主の御前に出なさい。そのとき主のお選びになる者が聖なる者なのだ。レビの子らよ、分を越えているのはあなたたちだ。」
16:8 モーセは更に、コラに言った。「レビの子らよ、聞きなさい。
16:9 イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた者として御自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか。

イザヤ 11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。
11:6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。

ヘブル 13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。
13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。
13:14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。
13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
13:16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
13:17 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。


イエス様の働きは、大祭司のように、民の祝福のためにとりなし、祈り、仕える働きであるが、普通の大祭司と違うのは、ご自分の命を犠牲の生贄として私たちを救おうとしてくださったことである。
自らの命をいけにえとして、私たちのためにとりなして下さるのである。
なんと畏れ多く、有難いことであろうか。
私たちにはイエス様のようなことはできないかもしれないが、イエス様の事を宣べ伝える御言葉の働きには携わることができる。
語るのは私たち人間であっても、語られる御言葉は神の言葉であり、イエス様が御言葉と共におられる。
私たちはそう信じて宣教の働きを進めているし、これからもそうしていきたい。
人間のいかなる良き業よりも、神ご自身の命をかけた救いの約束の言葉を語る事のほうがまさっている。
ただ、イエス様がそうであられたように、他者のため、とりなしのため、祝福のために御言葉を宣べ伝えることを続けて行きたい。
業ではかなわないし、ただ聖書の御言葉を語るだけかもしれないが、せめて心のあり方だけはイエス様と同じ方向を向いて、御言葉を宣べ伝えていく者でありたいものである。