ダニエル 8:15 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。
8:16 すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」
8:17 彼がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」
8:18 彼がこう話している間に、わたしは気を失って地に倒れたが、彼はわたしを捕らえて立ち上がらせ、
8:19 こう言った。「見よ、この怒りの時の終わりに何が起こるかをお前に示そう。定められた時には終わりがある。
8:20 お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシアの王である。
8:21 また、あの毛深い雄山羊はギリシアの王である。その額の大きな角は第一の王だ。
8:22 その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、それほどの力を持たない四つの国が立つということである。
8:23 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして 高慢で狡猾な一人の王が起こる。
8:24 自力によらずに強大になり 驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい 力ある者、聖なる民を滅ぼす。
8:25 才知にたけ その手にかかればどんな悪だくみも成功し 驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。
8:26 この夜と朝の幻について わたしの言うことは真実だ。しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い。」
8:27 わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。
詩篇 13:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
13:2 いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
13:3 いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
13:4 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください 死の眠りに就くことのないように
13:5 敵が勝ったと思うことのないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います 「主はわたしに報いてくださった」と。
ヘブル 10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。
10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
ダニエルが見た幻は「終わりの時」に関するものである、と告げられている。
しかし、その「終わりの時」とは、いわゆる世の終わりに関することではなく、メディア、ペルシャ、ギリシャといった、既にその滅んだ国々の繁栄の終わりについてということであろう。
つまり、全ての終わりというよりも、ある一つの時代の終わりであったり、一部の人間の支配による圧制の終わりと考えた方が適切であろうと思われる。
ダニエル 8:23 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして 高慢で狡猾な一人の王が起こる。
8:24 自力によらずに強大になり 驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい 力ある者、聖なる民を滅ぼす。
8:25 才知にたけ その手にかかればどんな悪だくみも成功し 驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。
強大な国をも支配する王たちも、永遠にはその統治を続けることはできないし、やがて終わりの時が来る。
そして、その終わりの時は、多くの民にとっては解放の時であり、救いの時となりうる。
旧約聖書に語られている「終わりの時」とは、まさにそのような時であり、イエス・キリストが人としてこの世に来られ、救いの御業を完成された時を示している。
そして、それは、確かに人間の手による支配の終わりの時であるが、神の祝福に満ちた恵みの時の始まりである。
そう考えるなら、私たちは「終わりの時」を生きているのではなく「始まりの時」に生きているのであり、神のもたらされた救いを頂いて、幸いのうちに生きている者であることを覚え、感謝と平安のうちに歩み続けて行きたいものである。