最近皆さんのブログの更新も無く(私も含め)、
ブログはもう過去のコミュニケーションツール
となってしまったのでしょうか?

ツイッターってどうなんでしょうか?
私は食わず嫌いでした事無いですが…。

まあそんな事は気にしません。


最近、遺書を書いております。
『おやおや』と、思った方、まああまり声高に言える
内容ではないですが、そんなに後ろ向きなものでもないのです。

『遺書』というと、死を覚悟した人が残していく者に対して綴る
メッセージといった印象があるかと思います。
いや、実際そうだと思います。否定する気はありません。

しかし私が今遺書を書いている理由は、100%自分の為です。

言うまでも無く、前者と後者の違いは、書く理由、矛先が
全く違うという点です。

話を進めます。
では何で遺書を書いているのか?
繰り返すようですが、自分の為です。更に言えば、
自分の事を客観的に見る為です。

私は自分でも認めておりますが、ひどく面倒臭がり屋なのです。
そして、ダラダラと何となく毎日を過ごしております。
それ自体を否定するつもりはないのですが、
どこかでそんな自分を変えたいと思っております。

そこで始めたのが遺書を書くという事です。

『遺書』を書くという事は、砂時計をセットするように、
残された時間の中で何をどうすべきか?という事を
否が応なしに考える一つの行為です。
死を前にした人間はあまりに無力なものですが、
それでも最後の悪あがきにうってでます。

話が長くなりましたね。
そうです、言うまでも無く、今自分はどうすべきか?という事を
考えられる一つの手段なのではないかと考えています。
(死や遺書などというものを軽はずみに扱わないべきである事は重々
分かっておりますが、不愉快に感じられたのであればお詫び申し上げます)

遺書を書き進める事で、自分がすべき事が浮かび上がってきます。
逆に言えば、後悔の念がそれを浮かび上がらせるのです。
幸いにも(?)私には事実上の妻子がありません。
財産分与等の事務的な作業から解放され、
自我という完全なる主観性の塊を客観的に見つめる事が出来るのです。

遺書を書いている時には、完全に死と向き合います。
いやいや結局死なないから、といった余白を残す事はしません。
その過程に於いて徹底的に自分を追い込みます。
実際、眠れなくなったり、食欲が無くなって体重が2,3kg落ちます。
芝居になった時点でこの行為は意味を無くします。

そのようにして自分を追い込む事で、自分のしたい事、すべき事を
文字通り、掘り起こします。
そして、実際の生活において最低限必要な作業を逆算したうえで、
優先順位を決めながら、タイムテーブルに落とし込んでいきます。

こうまでしないと、中々ベッドから身動き取れない自分に苛立ちますが、
平凡な生活を少しスリリングに変える事に少しだけ喜びを感じます。

さて、ここまで書いてみて注意点を挙げてみましょう。
人間は同じ作業を繰り返すと、慣れからなのか、技術的に向上します。
つまり今回で言えば、『遺書を書く』という事の技術が向上します。

これは私も何回か経験したのですが、あまりにも上手く遺書が書けると、
『ああ、もう死んでも良いかな』という思いに駆られます。
これでは本末転倒です。
より良く生きようと思って始めた遺書が、結果的に死へと向かっていく。
これは本当に注意が必要です。

私がここで書きたい事は、遺書の書き方ではなくて、より良く生きる
ツールとしての提案です。

上記の内容もあって、手放しにオススメ出来るものでは
決してありませんが、少なくとも私は上手く向き合えてると思います。

久し振りに書く内容がこんな重い感じになって、遺書のせいじゃない?
って言われたら身も蓋も無いですが、まあリアルタイムの勢いだけで
あるいは高い匿名性を利用して発言する、無責任な主張よりは、
少しまともな事を書いている気でいます。

にゃあ。