

『冬空の逡巡 』— 港近くの小さな駅にて
海沿いを走る単線の、静かな無人駅。 潮風に焼かれたベンチの傍らで、彼はひとり、冬の重奏に耳を傾けていた。コートに舞い落ちる雪を払い、手元のスマートフォンの画面を眺める。
誰かに電話するわけでも、メッセージを送るわけでもない。
ふと顔を上げると、冬の銀色を映した海が広がっていた。遠くで貨物船が、重たい溜息のような汽笛を鳴らす。画面には、彼女からの短い言葉が居座り続けている。
「4時の始発で北へ行くわ。気が向いたら、見送りに来て」
腕時計は3時45分。券売機の上で時を刻む古い時計も、同じ残酷さで彼を急かしていた。
一度は改札へ向けて歩き出し、そして足を止める。 引き止めるべきか、背中を押すべきか。彼の心は、冬空をあてもなく彷徨う千切雲のように定まらない。
不安と困惑、逡巡…たくさんの感情を包み込むように静かに広がる冬の空。
レールの軋む音が、静寂を切り裂いた。潮騒を塗りつぶすディーゼルエンジンの唸り。ホームに滑り込んできたのは、時代に取り残されたような一両編成の車両だ。
排気音と共にドアが開く。数人の影が降り立ち、窓越しに彼女の横顔が浮かび上がった。彼女は一度もこちらを振り向かず、ただ真っ直ぐ前を見つめている。
列車がゆっくりと、重い腰を上げる。彼は結局、声をかけることも、手を振ることもできなかった。 遠ざかる赤いテールランプを見送りながら、彼は最後の一葉となった街路樹に、自分を重ねる。
「……今夜のオーダーは、『フローズン・ダイキリ』以外に考えられないな」
舌を刺す冷たさと、微かな苦味。けれどその余韻は、驚くほど潔く、透き通っている。
駅舎を出ると、冬の早い一番星が夜の帳に穴を開けていた。彼はスマートフォンをポケットに仕舞い、港とは逆の方向——日常へと歩き出す。
「最初は反対したが……あいつも、立派な運転士の顔になった」
独り言を吐き出したマフラーに、彼女が残した香水の残り香が、最後の未練のように淡く漂った。

