
『あのジュークボックスの向こうに』
「…で、結局、あの約束は果たせなかったんだ。」
若者の言葉に、老紳士は静かにカクテルグラスを傾けた。店内のジュークボックスからは、軽快なロックンロールが流れている。チャック・ベリーのギターリフが、古き良きアメリカンダイナーの空気を一層甘酸っぱくする。
「人生とは、時にそうしたものさ、坊や。」老紳士は、窓の外の雨上がりの街を眺めながら言った。「果たせなかった約束の数だけ、心の中に、あのジュークボックスのボタンみたいに、選ばれなかったメロディーが残る。」
僕はカップに残ったコーヒーを一口啜った。少し冷めてしまったが、その苦味が妙に心に染みた。
「でも、マスター。果たせなかった約束って、いつまでも心に残るものなんですね。むしろ、果たせた約束よりも鮮明に。」
老紳士は、僕の言葉に小さく頷いた。
「それはな、坊や。人間というものは、終わりがないものにこそ、永遠を見出す生き物だからさ。」
彼の言葉は、いつものように深い。僕は首を傾げた。
「終わりがないもの、ですか?」
「ああ。例えば、このジュークボックスで、君がいつも聴く曲があるとするだろう?それを聴くたびに、君はあの頃の情景や感情を思い出す。しかし、もしその曲が、ある日突然、この店から消えてしまったらどうだろう?」
僕は想像してみた。いつも頼りにしていた曲が、もう聴けない。それは、どこか寂しい感覚だった。
「きっと、もっとその曲が恋しくなるでしょうね。」
「その通りだ。果たせなかった約束も、それと同じ。心の中で、永遠に再生され続ける。聴き終えることのない、終わりのないメロディーなんだ。」
老紳士は、カクテルグラスをテーブルに置いた。氷がカランと音を立てる。
「だが、悲しむことばかりではない。その未完のメロディーがあるからこそ、人はまた新しい曲を探し、新しいリズムに身を任せようとする。それが、人生の醍醐味というものさ。」ゎ、
僕は彼の言葉に、ハッとさせられた。果たせなかった約束は、単なる後悔ではない。それは、次へと進むための、見えない推進力なのかもしれない。
「マスターは…そんな、果たせなかった約束、ありますか?」僕は、恐る恐る尋ねた。
老紳士は、少し遠い目をして、ジュークボックスを見つめた。あの頃、熱狂したロックンロールが、今も変わらず鳴り響いている。
「ああ。昔、ある女性にね…『いつか、このジュークボックスで、君のためだけに、最高のラブソングをかけるよ』と約束したんだ。」
彼の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、後悔というよりも、愛おしさを含んだ表情だった。
「結局、彼女は遠い街へ行ってしまって、その約束は果たせなかった。だが、そのおかげで、私は今でも、この店で、新しいラブソングを探し続けているのさ。」
彼は、再びカクテルグラスを手に取った。グラスの縁に、ハート型の小さな水滴がキラリと光る。
「人生とは、あのジュークボックスの向こうに、まだ見ぬ名曲が隠されていると信じて、コインを投入し続けること。それが、私の見つけた答えだよ。」
その日、僕はマスターの言葉を胸に、ダイナーを出た。雨上がりの夜空には、満月が煌々と輝いていた。僕は空を見上げ、心の中で、あのジュークボックスの、まだ誰も選んでいない、新しいラブソングに耳を傾けていた…
海辺のカフェ「シーサイド・メモリー」は、日曜日の午前中、いつも穏やかな時間が流れている。今日は、いつもの常連客である由紀さんと、そのお母さんが窓際の席に座っていた。
由紀さんは、淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気を眺めながら、ゆっくりと新聞を広げる。その隣で、お母さんはマスター特製のホットサンドを美味しそうに頬張っている。
「マスター、このホットサンド、今日の具は何かしら? いつもと違う香りがするわ」
お母さんが尋ねると、カウンターからマスターが笑顔で答えた。
「今日はですね、地元で採れた新鮮なカブを軽く炒めて挟んでみました。由紀さんのお母さんが好きだっておっしゃっていたので」
マスターは、お母さんの好みをよく知っている。そんなささやかな気遣いが、このカフェの居心地の良さを一層深めている。
由紀さんは、新聞から目を離し、そんな二人のやり取りを微笑ましく見つめていた。ふと、テーブルの下を見ると、マスターの愛犬であるゴールデンレトリバーの「サンディ」が、気持ちよさそうにうたた寝をしている。サンディは、由紀さんの足元に頭を乗せ、時折、幸せそうな寝息を立てていた。
窓の外には、穏やかな波が打ち寄せる海が広がる。夏が終わり、少しだけ肌寒くなってきたけれど、太陽の光はまだ暖かく、店内に優しく差し込んでいる。
「ねぇ、お母さん。このカブのホットサンド、美味しいわね」
由紀さんがホットサンドを一口食べると、お母さんは嬉しそうに頷いた。
「でしょう? マスターはいつも、私たちのために色々と工夫してくれるのよ」
なんてことのない日曜日。美味しいコーヒーとホットサンド、そして大切な人と過ごす時間。窓の外の穏やかな海の景色と、足元で眠るサンディの温もり。
「人の情が身にしみる」というのは、きっとこんな瞬間のことを言うのだろう。特別なことは何一つないけれど、心温まる幸せが、じんわりと心を満たしていく。
由紀さんは、再びコーヒーカップに手を伸ばした。今日という一日が、このまま穏やかに続いていくことを願うように…
『3番目のカクテル〜レモン色の約束』
瀬戸内の海は、今日も穏やかなコバルトブルーのグラデーションを描いていた。小高い丘の上に立つ瀟洒な家。その芝生の庭に置かれた白いベンチには、洒落た老夫婦が並んで座っていた。夫はネイビーのジャケットを羽織り、白髪交じりの髪はきれいに整えられている。妻はパステルピンクのワンピースに身を包み、優しいグレーの髪が風に揺れていた。二人の視線の先には、きらめく水面と、その向こうにうっすらと霞む島影。両脇には、生命力あふれるオリーブの木と、たわわに実ったレモンが眩しいレモンの木。
「ねえ、あなた。あの頃の私たちが、今の私たちを見たらなんて言うかしら?」
妻がレモンの葉を指先で弾きながら尋ねた。彼女の耳元で揺れるパールのピアスは、午後の陽光を浴びて、若い頃よりもずっと優雅に光っている。
夫は海から視線を外さずに、少しだけ口角を上げた。
「そうだね。きっと『あの老夫婦、なかなかいいステップで人生を踊りきったじゃないか』って、マティーニを掲げて乾杯してくれるだろうさ」
妻はクスクスと笑い、夫の肩に頭を預けた。
「マティーニ……。あなたはいつも、三杯目のマティーニで私に甘い嘘をついたわね」
「嘘じゃないさ、あれは『未来の予報』だったんだよ」
夫は空いている方の手で、妻の柔らかな手を探し当てた。
「あの頃、僕たちが夢中で追いかけていた都会のネオンや、真夜中のドライヴ。それも悪くなかったけれど、こうして君と二人、オリーブの風に吹かれながら瀬戸内の凪を見つめる……。これが僕たちの人生という名のカクテルの、一番美味しい『仕上げ』だったんだ」
妻は目を閉じ、潮の香りとレモンの爽やかな香りを深く吸い込んだ。
「ねえ、今日は三杯目の代わりに、このレモンを絞って炭酸水で割りましょう。アルコール抜きでも、今の私には、あなたとの時間が一番酔えるから」
夫は立ち上がり、たわわに実ったレモンを一つ、鮮やかに摘み取った。
「お安い御用さ。最高の『瀬戸内・カクテル』を君に。ただし、隠し味に僕の感謝をたっぷり入れるから、少し甘すぎるかもしれないけれどね」
二人の背中越しに、穏やかな海がキラキラと、祝福の拍手を送るように輝いていた…
そして2人の影が消えた瀬戸内の午後は、ソーダ水に一滴のブルー・キュラソーを垂らしたような、透き通った静寂に包まれていったー

