『いだてん』第20回「恋の片道切符」 | 趣味のブログ(空想特撮シリーズ,マラソン,トレーニング,中高年の健康管理など)

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趣味の特撮作品の特撮シーンを中心に思いつくまま気の向くままに書いています。サブ3.5を目標にマラソンのトレーニングを継続中。

5月26日放送の大河ドラマ『いだてん』は第20回「恋の片道切符」でした。

今回はストックホルム大会から8年後に開催されたアントワープオリンピックです。
日本から送付した嘆願書も功を奏し、マラソンがオリンピック種目として復活しました。
体協(大日本体育協会)から15名の選手と監督1名分の渡航費が支給されることになりました。

マラソンの金栗四三ほか4名以外には、十種競技(Decathron)の野口源三郎ほか陸上各種目に数名。野口は選手団の主将も務めました。

さらに水泳から2名(斉藤兼吉、内田正練)。

内田正練は浜松の河童軍団?のリーダー格であり、彼と親しくしていたのが後半の主役、田畑政治(右)です。(今回は少し成長するとともにさらに阿部サダヲさんに近づいたようです。)


監督は、というと永井先生でも可児先生でもなく、辰野保という東大卒の弁護士でした。

彼は後に体協の理事となり、東京オリンピック招致に関わっていきます。父は有名な建築家、辰野金吾氏、兄はフランス文学界で有名な辰野隆氏、という三島弥彦に負けじ劣らぬ血筋ぶり。

そんなことで前回にくらべ日本選手団は大きくなりました。

アントワープへは太平洋、北米経由の船旅でしたが、入国手続きに際し、ちょっとした事件が起きます。

日本人上船客が点呼を受ける中「いけべ(池部)」という名前が呼ばれます。選手団員は池部という名の人物は知りません。
しかし四三が池部は自分だと名乗り出ました。

池部家に養子入りした四三は、パスポートの名前は「池部四三」になっていたのです。これには嘉納先生もびっくり。


妻と長男は熊本にいると話すと嘉納先生は「報告が遅い!」と激怒しましたが、写真を見るや嘉納先生も祝福してくれたようです。



この時、ちゃっかり野口源三郎も松本で結婚したと報告していました。さらに二階堂トクヨがどうも野口に恋心を抱いていたようで、彼女のところにきた見合い話を代わりに引き受けたのがシマちゃんで、それがうまくいってしまうようです。

この辺は次回以降に。

アントワープに着くや、応援にかけつけてくれたのがこの方!

三島弥彦氏。前回、8年前のストックホルムでは四三と弥彦、たった二人のスタートでした。ロンドンの銀行に勤める弥彦。「なーに、今はただのエリート銀行員さ!」と相変わらずでした。

天狗倶楽部の激励まで再現してくれた弥彦でしたが、四三の不調にもいち早く気づいていたようです。


入場の場面のあとは、一気に飛んで報告会。会場には大勢の記者がつめかけていました。

熊本から四三の妻、スヤと兄、実次も駆けつけていました。オリンピックのあと、四三からの連絡が途絶えていたようです。


報告会の進行役は主将の野口源三郎。

四三の姿はありませんでした。嘉納先生も他国を遠征されていました。

野口は十種競技に出場し12位でした。順位があるのが12位までなので最下位。主将が最下位ということで会場はブーイングでした。(自虐的に最下位と強調されていましたが、多くの選手が棄権する中、すべての競技をやりきっていました)

よい結果もありました。テニスの熊谷選手がシングルで銀メダル、熊谷・柏尾組がダブルスで銀メダル。2つのメダルが日本にはじめてもたらされました。


期待された水泳2名は予選落ち。日本泳法は世界には通用せず、クロール習得の必要性を内田選手が訴えていました。場内で田畑政治が真剣に聞いていました。
さらに陸上の各種目もほぼ全滅、予選落ちでした。
最後にマラソンの報告。マラソンはまだ第一次世界大戦によって荒廃した街で行われました。

マラソンには日本から4名が参加。30歳になった金栗四三は他の3選手を激励しながら、必死に走りました。

後半35キロ付近で最高5位まで順位をあげましたが最後に失速し、16位という結果でした。他の3選手も20位、21位、24位という結果でした。
 

報告会のブーイングは最高潮に達します。一部の記者は「非国民!」とののしり場内は騒然としていました。
そんな中、二階堂トクヨは嘉納会長の責任問題を追及します。競技から外れていたマラソンを復活させたにも関わらず惨敗であったからです。

 

これに異を唱えたのがスヤさんでした。

「金栗選手は負けとらん、、、
42キロ、日本人ではじめて完走したとでしょが、
金栗選手は金メダルったい!」
「あなた誰ですか?」と問う二階堂に対し「池部です、、、金栗四三の家内です」と。スヤはマラソンを走った選手達にも「ようがまだしたばい」と言って激励していました。

興奮する二階堂をさえぎったのは恩師の永井でした。実は嘉納と永井は既に体協から退くことを考えていたのでした。


一方、その頃、四三はドイツを彷徨っていました。
4年前にオリンピックが実施されなかったベルリンの地。

傷心の四三の前に、やり投げ競技の槍が飛んできました。ちょうど近くに練習場があったようです。しかし、それを投げていたのは女性選手でした。
これはその後の四三が女子体育教育に目覚めるきっかけとなったようです。
今回はここまで。

次回、第21回「櫻の園」です。
大正デモクラシーの盛り上がりの中、女子体育教育が活発になっていきます。

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