どうも。

「征韓論」ですな、近代日本史で暗記した人もいるかもしれないですね。

 

西郷隆盛は対李氏朝鮮外交については語っていますが、「征韓論」は一度も話してません。

日本が新たな政治体制になったので、外交を新たにしようとしたときに遣わした外交官たちが李氏朝鮮側の非礼に怒って言い出したものが「征韓論」なのであって、西郷の言ったことは『自分があらためて談判しにいく』というものでしかない。

でも、李氏朝鮮側の対応からいくと西郷が行ったところで『それならば、はい』と言うものではない・・・つまり、西郷は平壌で殺されてこよう、という腹積もりだった。

時間軸を飛べば、早くに安重根を出現させるのが、目的だったんですよ・・・。

そうすることで、西郷の持論である対ロシア戦線に日本国で宙に浮いた勢力であった士族連中を送り込める、とこう踏んだわけですね。

 

西郷の外交論、というのは心許ないです。

素地は島津斉彬という英邁で先取の精神に富んだ殿様がくれた・・・その後、勝海舟がそれを多少現実味を持たせる役目はしたでしょう。が、せいぜいそれくらいで西郷本人に欧州列強のバランスやそこからくる国際秩序の中でアジア各国はどうなっているか、があるわけではない。

とにかく、ロシアの南下の脅威しか感じていない。これでは、西郷の思うままに暴発的に「日露戦争」が起こっていたとして、神風すら吹きません。

だいたい、当時の海軍卿であった勝海舟自身が「征韓など、とてもできない」と渡海に難色を示していた。

でも、欧州外遊から帰った岩倉使節団の帰国で、阻まれたというのもちょっと違うんですね。

 

もちろん、大久保も岩倉も反対論でした。でも、西郷以下は議は尽くしたとして天皇への上奏を迫り、首相格といっていい三条実美は決断を迫られて押し切られてしまう。「征韓論」、少なくとも西郷の渡韓は成功してたんです。

が、運命というものか実は誰かが入れ知恵したものか、上奏をすべき三条実美が人事不省の状態に陥った。三条の次の位階は岩倉でした。当時はまだ太政官制ですからね、議会はおろか内閣制もないんで、京都の御所のなかでごにょごにょやってたことの延長ですので、こうなってしまう。

西郷は仕方ないので、岩倉のところに行って上奏するように迫る。迫ったが、岩倉はここでちょっと凄みを利かせて「ちゃぶ台返し」しちゃった・・・これが、「征韓論」の敗れた真相のようですよ?

大久保が糸を引いてたかどうか、ともかく、西郷の下野とともに鹿児島に帰った薩摩っぽにしてみれば、その後の明治政府が大久保主導で固まっているのがわかりますから、大久保は憎まれたんだと思います。

 

大久保たちがまず手を付けたのは、内政の充実共に内政の重大課題となった不平士族らのガス抜きです。そういうと、『征韓論自体がガス抜きのようなもんじゃないか』となるんですけども・・・。

ここで出てきたのが、「征台論」でした。

台湾でちょっとしたいざこざがあったのを兵を繰り込んで国の威信とすれば不平不満も少し溜飲が下がるだろう、ということです。

これに怒ったのが、木戸孝允、昔の名で呼べば桂小五郎ですな。

征韓論を潰しておいて、台湾にはいくというのは筋が通らん、とこれも下野しちゃう。

ま、長州閥というものは「大将と子分」の関係ではありませんので、大したことはないんですが、それでも伊藤博文などは帰郷はしないようにと随分、説得したようです。

というのも、これから続々と不平士族の反乱がおきるんですが、征韓論騒ぎの直後の佐賀の乱以外の勃発は、どうにも胡散臭い。

佐賀の乱から、秋月の乱~神風連の乱~萩の乱、そして西南戦争と続くんですが、維新の原動力になった西国での反乱が、もちろん「西郷隆盛」のネームバリューを頼みにして決起したんだろうけども「大同結集」などの根回しもない、暴発ばかりなんですよね。

これは鎮台制を敷いたばかりで、実力も見えない日本の軍隊でも勝てるように、ボヤのうちに芽を摘んでいった結果ではないのか、と穿ちたくなる。

 

事実として、警視庁の川路利良の「計略」にはまって、西南戦争は暴発気味に起こったことが判明しています。私学校の連中が、警視庁の「スパイ」を捕まえて自白させたというものが暴発に至る理由ですが、警視庁の二段構えの「苦肉の計」であるとは、だれも思わなかったのかねぇ・・・西郷も桐野クラスしか残っていないと、ただのウドさぁ、だったのかもしれない。

だて、西洋式艦船の威力はもう誰もが知っているのに、江戸の参勤交代の行列並みに九州を陸路行軍していく発想が、もう本気で反乱する気があるか疑わしい。

ここは、十分に検討してもらいたいところですが、桐野利秋らの頭には『西郷先生が上京するんだと、言ったら政府軍はひれ伏すだろう』くらいの甘い考えがずっとあって、熊本鎮台が防備を固めていると知っても、『戦って見せた、くらいで済むんだろう』としか思ってなかったんじゃないですかね・・・。ここに私学校の連中が、西郷本人が悩んでいた「巨大すぎる名声」による西郷の虚像に酔いしれていたように思うんです。

結果、田原坂のような熾烈な戦いに突入していくんですが、大戦略そのものがおかしんですから、薩摩軍が勝てるわけがない・・・これだったら、豊臣家の滅亡となった大坂の陣のほうが一時休戦に持ち込んだ分、惜しいようなもんです。

 

結局、西郷が死んだのち、大久保も暗殺され、後を託された者たちが江華島事件から大韓帝国の傀儡化を行い、韓国併合に持っていきます。

面白いのは、朝鮮総督となって暗殺された伊藤博文にしろ、大久保にしろ、恐露病に近いくらいに対ロ宥和路線だったことですね。

西郷を殺しておいて、ぬけぬけと対ロシア戦に臨んだ日本人の神経もアレっちゃアレな感じもしますし、日本の国威が揚がると一斉に「万歳」しちゃうところが、分かるけれども情けないような気持ちにさせられる日本人の性分ですなぁ・・・。

 

 

 

ではでは^^メイ吉でした(´・ω・‘)ノ チャオ