https://youtu.be/AsvlKu9SiII

 

どうも。

入江たか子さんは、俺にとっては歴史上の人物です。昭和終り頃の映画出演には間に合っているんだけど意識したこともなかったです。

「亡霊怪猫屋敷」というタイトルからもわかるように、『化け猫女優』として一世を風靡した、という映画史的な存在でした。俺がしってたのは、それだけ。

 

ところが、彼女の本質はそこじゃなかったんです。

昭和初期に銀幕デビューするとたちまちに売れっ子女優になった理由・・・それは、彼女が華族出身のまさに令嬢だったからなんです。

子爵・東坊城家の子として生まれるが、父の逝去とそれに続く関東大震災によって一家は没落し経済的に困窮、京都に移り住んで勧められるままに新興娯楽産業の映画産業・日活に入社し、センセーショナルにデビューしました。

ちょっと説明がいりそうなので、補記しましょう。

大正モダニズムくらいから、婦人雑誌がよく売れるようになっていきまして、そうすると現代も昔もご婦人方の「憧れの対象」が誌面を飾るんですね・・・その当時の、日本のご婦人にとってあこがれは「深窓の令嬢たち」の日常でした。いまだに皇室記事は女性週刊誌の定番ですが、あれは名残りですなぁ。

華族の奥さまや令嬢の写真が誌面にのり、その日常生活を追った記事が書かれていた・・・いっときの、アイドル歌手やいまのファッションモデルなどの扱いでした。でも、当時と今の違いは、華族の女性の存在は誌面によって垣間見られるだけの雲の上にしかなかったってこと。

まさか、映画館に行けば見られるなんてもんじゃあなかった。

そこに起きたのが、「入江たか子銀幕デビュー」だったんですね。

 

戦前の入江たか子の映画界における地位は相当なものだったようで「入江ぷろ」という女優初の独立プロダクションを持っていたほどで(といっても、時代劇映画の男性スターの多くは独立プロ持ってたんですけどね)そこで作られる映画は入江の立ち位置が上で、監督はそれに唯々諾々と従う、というようなものでした。

ウィキによれば、戦中から戦後までの名監督として有名な溝口健二さんは、入江プロにさんざん貶められたプライドを随分と根に持って、その後に意趣返しのようなことをしたってありましたよ。ホントですかね・・・。

というのは、プロダクションを解散し、東宝に移ってから彼女の立場は大きく変化したからです。

兄3人の死、終戦、戦後の大病・・・と浮き沈みの激しい芸能の世界では致命的な空白期間を生んでしまった。

 

そこから転機が訪れるのは大映に移って、永田ラッパで有名なワンマン・永田社長のアイデアで、「化け猫映画」のリメイク作品への主演を任されたこと。

これが大ヒットしたんで、計5本も化け猫映画に出た。なので「化け猫女優」と呼ばれるようになったんです。映画女優の「リサイクル」のつもりが当たってしまったんだから、こういう時代の寵児の勘ばたらきって恐ろしいもんですね。

その後、昭和30年代中盤に、映画を事実上引退し、バー経営などの実業家に転身しました。

大林信彦監督作品かだと思うんですが、昭和の終わる時期くらいにゲスト出演のように映画に出ておられたような記憶があります。

 

亡くなられたのは、’95年、83歳のことでした。

大病や困窮時代があったのに、ほぼ天寿を全うされたみたいでよかったです。

’90年代と言えば、細川護熙内閣誕生もありました。

平成と言う年号になって、旧華族による「呼び戻し」的な部分があったかもしれないですね。

細川さんはそうではないですが、入江さんのパターンはまさしく日本人の好む貴種流離譚を地でいった感じがしています。

己れの「生まれ」というものが、隠れもなき名家の血筋であり、それが人の好奇を生む源泉であるのならば、有益に活用してなんの咎めがあろうか、というところなんですが。

ひとの心の移ろいは、娯楽に関しては特に奔流のように早いし、荒いですからね。

芸能界に飛び込む「他種」サラブレッドっていうと、小泉孝太郎さんが思い浮かんじゃいますけど、昭和からのでいえば山村紅葉さんも、そうですよね。

そうそう、野村萬斎さんのご長女はもう公文式のCMでデビューされていましたが、どうやらTBSの局アナに合格されたらしいですよ?

芸能と言っても、古典芸能ですからね・・・重みがありますよね。頑張って欲しいものです。

貴種なだけに、風当たりも強いんでしょうけども。このご時世ですからね。

 

 

 

 

ではでは^^メイ吉でした(´・ω・‘)ノ チャオ♪