どうも。

映画「復讐するは我にあり」でも有名な、西口彰ですね。

 

西口は、虚言癖の多い社会的な問題児であったでしょう。

この男の問題は、詐欺や窃盗の前科から一気に殺人というバイオレンスに走ったことです。

昭和30年代の警察的常識を西口がまず破ったのはそこです。

知能犯的犯罪行為の常習犯は、暴力犯罪に手を染めないという定説を覆したこと。

西口のはじめの強盗殺人の動機は、愛人への金銭的援助の申し出の期日が迫っていたから、という何とも短絡的な原因で、その愛人への執着が格別に深かったわけでもないのは、事件の露見で西口が手配されてると知るや、逃亡生活を図っていることからも明らかです。いや、本当は「明らか」でもないのかもしれません。

映画では、緒形拳さんは非情な悪人を演じきっていましたが、西口という男は対社会という面で大胆で不遜で人を食ったところがあるのに、自分の家族のことを一言思い出させるようなことをいうと、身も世もなく泣き出したとされています。

この男の内面には、どこかアンビバレントなところがあります。

 

逃亡生活が全国指名手配されながらも犯罪を繰り返し続けられた背景に、西口のもう一つの常識破りがありました。

全国を股にかけ、逃げに逃げまくれた・・・まだ広域捜査事件に対しての警察の組織上の不備を突かれてしまった。西口の事件が起こってから、問題点を解消させるべく動いたわけで、まさに後手だったんです。

もし、戦後復興の早い段階で警察組織が社会の変動に対応できていたならば、映画で小川真由美さんが演じた女将さんなどが被害者にならずに済んだかもしれません。

西口は、殺人をも厭わぬ犯罪の連鎖を起こしていますが、よくよく眺めてみると、この男の着想に「潜伏」と「飛躍」はないのです。

逃亡資金がなくなったら犯行、という繰り返しで、どこの時点でも「足がつく」結果になっている。どうせ足がつくのだな、と学習し一つの犯罪で大きな金を奪って、日本でないどこかへと逃げようという「展開」は一向に感じられない。大胆なクセに、常に切羽詰まった「感」がぬぐえないのです。

これだけの「大悪党」であるのに、より大きい「闇」はあまり見受けられないのです。

 

西口が、公判以降は悔悛して刑に服して死んでいったという「現在」からの見え方も影響してるかもしれません。

少女の発見が通報に繋がるといったドラマティックな結末の持つ、純粋さが邪悪を制する図式に多くのひとの納得があったせいでもあるかもしれません。

昭和30~40年代、まだ犯罪はどこかに「牧歌的」な、自分の住む世界とは違う空間で起きているような、そんな錯覚があったからかもしれません。

被害者というのが、きわめて個人的な「運の悪さ」だけで社会によって留められ、「三億円事件」に至っては一般の市井に被害が及んでいないので、どこかで「快挙」と思うような風潮すらあったのがいい例ですね。

西口の事件も、恐怖と隣り合わせに生きているはずなのに、警察の無能ぶりを責めて自分だけは関連しないように身構えていれば、息を殺してかがんでいれば、傷つかないでいられる幻想がどこかにあったんじゃないか、と思うのです。

 

西口の場合、野獣と化したものが野に放たれているようなものでしたけれど、犯罪の発覚から逃亡を続けた犯罪者はこののちも出ています。

福田和子や市橋達也などは、逃亡中に整形を行って長く潜伏してしまい、事件解決まで時日が非常にかかりました。

西口はそういった「遁走」はなかった・・・西口が逃走犯のハシリの地位に近く、これだけの詐術のある男だけれど、そこまでの知恵はなかったんだとも言えますが。

西口は天才的に嘘が巧かったとされていますが、現代の詐欺である「振り込め」などの『ほぼ情報が足らない』中での話術から比較すると、大胆過ぎて見抜けなかったという部類に近いし、ハイリスク過ぎて普通の知能犯ならやらない気がします。

本質的に、西口は短絡的な犯罪への指向性があって、その「短さ」が詐術から暴力へと向かわせたのが実際であったと思うのです。

 

クリスチャンであったことの背景を鑑みると、犯罪における「短絡さ」が故の二面性が、実際の自分と故郷にある自分の居場所とのアンビバレントに変貌します。

ここでは、西口のダブルスタンダードは過去の実在=現実でなくなった虚像、と現在の自分=理想から乖離した夢幻と、いうような二極性に至ったんじゃないでしょうか。

西口のあまりにも180度な態度の急変を思うと、拘置所で執行を待つ西口の小市民的な、宗教的な生き方こそが西口の本来であると、しんじたくなります。

しかし、いくらアンビバレントであっても、もう一人の西口も実在していて、その罪は贖わなければならないものでした。

西口のいた当時の世相では、人権的側面よりも財貨を含めての「他者からの強奪」を憎む気持ちが強かったのですが、それでも罪は罪です。

冤罪事件が発生し、社会の公権力による「死」の在り方にも目を向けねばならないとは思います。しかし、西口のような明らかな犯罪・殺人がある限り、「社会の許容性」の醸成に一気に傾くとも思われないのですよ・・・。

 

西口は、死を迎える前に自分の孫にあたる乳児と対面できたようです。

しかし、我々は同時にこの男によって奪われた多くの生と、その生が会えていたはずの出会いについても想起しなければいけないと思います。

彼らの生が絶たれたことが宗教的存在のいかなる理由からきたものであろうとも、西口の手によってそれが行使されて良いものでないと、毅然と言い放つべきだと思います。

 

 

ではでは^^メイ吉でした(´・ω・‘)ノ チャオ♪