どうも。
日本の騎馬の奇襲戦といえば、義経の鵯越の「逆落とし」が有名です。
かの司馬遼太郎先生も、明治日本陸軍で義経と織田信長の桶狭間の戦いの二つを挙げてドイツ人教師を感服させた一節を「坂の上の雲」において書いているくらいです。
一の谷の合戦と、鵯越の逆落としはイコールではありません。
そもそも、一の谷は平家の本陣ともいうべき土地に当たっていて、その後ろの断崖絶壁があったので挟撃できない「攻めにくい」ところだったんで、勢いに乗る源氏と木曽義仲を追いやった平家とで勢力圏争いの地に選ばれたんです。
多勢で攻めかかる源氏を隘路で食い止めて、押し返すのが平家の軍略ですね。
その大軍とは、義経の庶兄である範頼が率いる5万数千余のことであり、別動隊(搦め手)だった義経軍1万のことじゃあないんですよ・・・。
つまり、遭遇戦で戦った義経軍が平家を追い散らしてしまったために有名になり、その義経が行ったとされる奇襲作戦を名付けて、鵯越の逆落としと呼んだ、というわけです。
実際に、という地名が当時からあったのか、そういう地形であったのかは定かになっていませんし、平家物語でない出典(主に、吾妻鏡・・・ちなみに、テレビでよく見かける本郷教授は鎌倉時代が専門の方なので、ココはよく知ってるはず)では、「勇士、七十余騎を率いて、一の谷の後山に到着」「勇士を率いて、鵯越において攻防の間に、商量を失い(平家は)敗走」とあるだけで、背後から70ちょっとで襲い掛かったら勝った、というだけです。
なにも猟師が「鹿しか降りらんねぇだべ」義経が「馬だっていけるもんねー、へへーん」なんて、どこにも書いていない。
伝承なのか、事実なのか、皆さんのお気持ち次第ってヤツ。
一の谷合戦は、一時期太宰府まで落ちて行った平家が大勢挽回のために駆け上がってきた清盛の肝煎りだった福原(神戸)で、源氏同士の醜い争いを勝ち上がった「源頼朝軍」と対決したってことでしょうね。
義経は、いわば「駒」扱いなんですよ・・・そもそも。
でも、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)のシンボルとなってしまったことで義経は後白河法皇と頼朝の政争の具にされたんです。
その意味で、悲劇です。でも、同じ運命なのに重要視されなかった範頼よりは扱いはいいですよね?「判官びいき」って言葉も残ったし。
信長の名前が出たので、追記しますと、彼が桶狭間へ行く前に舞ったとされる「敦盛」、有名ですよね?
平敦盛は、この一の谷合戦の敗走の場面で、熊谷直実に打ち取られています・・・その模様というか、心象というか、それが「敦盛」の舞いになっているわけですね。
一番乗りの戦功を上げた勇者が、我が息子と似た年恰好の美少年の敵を討ち取らねばならない、武家の無情。
熊谷信実が実際に出家して、敦盛を供養してるのも決め手になって、「平家物語」の名場面になっているんです。
このあたり、大河ドラマなどは歌舞伎さんが多く出るんで、詳しいんですよ?
大河と言ったら、「平清盛」は低視聴率でした・・・だから、きっとご存知ないと思うんですが、平家きっての荒武者顔ながら家中きっての歌人として有名な平忠度も、一の谷で死んでいますが、演じたのは、なんとムロツヨシさん。
まだブレイクする前だったけど、インパクトあったな。
「平家にあらずんば人に非ず」で有名な時忠は、V6で宮沢りえのダーリンな森田剛でしたねー。
敦盛に至っては、演者無し・・・キャストじゃなかった・・・。
主人公が主人公なので、クライマックスの「源平合戦」が流しっぽかったから、知らなくても仕方ないんですが。。。
生きている間に、もう一度、「平家物語」の舞台はドラマが見たいとは思ってます。
やっぱ、耳なし芳一の風景的なところから始まって、キンキラキーンメイク決めた男の子たちがいっぱい出てないと、「平家物語」じゃあないってことだと思います。
「平清盛」がリアリティを追求したのは分かるけど、時代からいっても、「ちょっとジャニーズと宝塚しか出てないじゃん!」な時代劇のほうが良かったと思うな、うん。
あ、締めが「平清盛」の感想になっちゃいましたね。
ではでは^^メイ吉でした(´・ω・‘)ノ チャオ♪