今回は真田親子の話です。
関ヶ原までの話をします。
第一次上田合戦から第二次上田合戦までの15年間
は、真田家にとって「生き残りをかけた激動の時代」でした。
第一次上田合戦の勝利と秀吉への接近(1585年〜)
第一次上田合戦で徳川家康の大軍を撃退した真田昌幸ですが、孤立したままではいずれ滅ぼされてしまいます。そこで昌幸は、当時天下人になりつつあった豊臣秀吉に接近し、その臣下(家来)となりました。秀吉のバックアップを得たことで、徳川家康も真田を簡単には攻撃できなくなりました。
この第一次上田合戦で、真田軍は全国に『真田強し』と名を知らしめた出来事です。
② 徳川との「政略結婚」による和解(1589年〜)
秀吉の命令もあり、真田家と徳川家は一度「和解」することになります。
その証として、家康の養女(本多忠勝の娘・小松姫)が、昌幸の長男・真田信之のお嫁さんとして嫁いできました。これで真田と徳川は親戚関係になります。
その証として、家康の養女(本多忠勝の娘・小松姫)が、昌幸の長男・真田信之のお嫁さんとして嫁いできました。これで真田と徳川は親戚関係になります。
③ 秀吉の死と「関ヶ原の戦い」(1598年〜1600年)
秀吉が亡くなると、再び天下を狙う徳川家康(東軍)と、豊臣家を守ろうとする石田三成(西軍)が激突します。
ここで真田家は、生き残るために家族を2つに分ける決断(犬伏の別れ)をします。
徳川軍 長男・真田信之(徳川の親戚のため)
豊臣軍 父・真田昌幸、次男・真田信繁(幸村)
この結果、昌幸と信繁は上田城に立て籠もり、関ヶ原へと向かう徳川秀忠の大軍を迎撃することになります。これが第二次上田合戦の始まりです。
そして、徳川秀忠は関ヶ原の戦いに大遅刻をして、面目丸潰れになります。
徳川軍の主力部隊38000人に対して、真田軍は約3000人。これほど兵隊の数が違ったのに真田軍の勝ち。しかも、天下分け目の戦に主力部隊を参加させなかったとなると、徳川家康が真田軍を警戒するはずですね。
そして、私の想像話では、遅れた事により徳川秀忠は父親を亡くし、会った時は影武者が父親になっていた。徳川安泰のため、恐らく一番しんどかったのは秀忠だったんじゃないかな?そんな気がします。
私の想像話は、明智光秀もそうですが、真田幸村の想像話もあります。関ヶ原から大坂冬の陣、夏の陣と真田幸村が主役の想像話をまたいずれ書いていきます。



