住吉大社と徳川家康の関係を探っていきますウインク


関係がいっぱいありましたびっくり

1️⃣1614年大坂冬の陣で本陣だった。

大坂冬の陣で家康は、住吉大社の神主宅に本陣をおいた。


2️⃣社領の寄進と保護

1614年に家康から禁制を与えられ、1615年に朱印地として住吉郷内2060石が定められるなど、江戸幕府から手厚い崇敬と保護を受けた。


3️⃣江戸の佃住吉神社への影響

家康と摂津国・住吉大社の縁は、江戸の佃島住吉神社の創建(1615年)にもつながり、住吉三神とともに家康の御霊も祀られている。


住吉大社は、家康とはどっぷり仲良しですねびっくり


住吉大社絡みでにも話があるので、まずはそっちの話からしましょう照れ

こっちの話でまずは、今までの家康像を壊してもらいますてへぺろ


住吉大社の住吉三神は、海の神様です。

海上安全、渡航安全の守護神として信仰をあつめました。信仰していたのは、身近なところでは漁師さんですね。家康は、堺の漁師さんとも仲良しだったと云われてます。


それはなぜかと言うと、堺の漁師は家康を救ったからと云われてます。


本能寺の変の際、伊賀越えで逃げていた家康一行は、神崎川の渡し船で困っていたところを、佃村などの漁師が船を出して助けた。と云われている。


家康が天下を取った際も感謝を忘れず、江戸幕府を開いた後(1590年頃)佃村の漁師や庄屋一族を江戸へ呼び、破格の条件を与えて江戸城下に住まわせました。漁師たちはその土地を故郷にちなんで『佃島』と名づけたと云われてます。


なぜ佃村の漁師一族は呼ばれたか?

1️⃣食糧確保

江戸が急激に人が増えて、食糧確保のために、最新式の漁をしていた佃村の漁師を呼んだとも云われてます。その当時は、一本釣が主流だったが、佃村の漁師たちはら網漁をしていたそうで、大量に魚を確保出来るので、取り入れたとか。

2️⃣家康は白魚好き
佃村の漁師たちは白魚漁が得意で、家康が白魚好きのために呼び寄せたとか。


東京の佃煮は、この漁師たちが作ったものが広まったと云われてます。

家康たちが本能寺の変の後、何も食べずに飛び出して来たため腹ペコで、漁師たちが漁の最中に食べるお弁当を家康一行に食べさせてあげた。そのお弁当に入っていたのが佃煮だったので、家康が気に入りその影響もあってか、江戸で広まったとか。


堺の漁師さん大活躍ですね爆笑


北斎の絵にもなってます。
それくらい佃煮って流行ったんですね。
葛飾北斎 『富嶽三十六景 武陽佃嶌』

徳川家康と堺の漁師さんのすごくいい話ばかりなんで。そして、家康は恩義を大事にする良い人みたいな話ですね照れ


でもね…。

私は違う風にこの話を読み解きました。

これ正解じゃない❓と思ったドラマがありました。大河ドラマ『豊臣兄弟』の本能寺の変の話の時に、伊賀越えで逃げると言う話がでたシーン。


『伊賀越えはしない。船で帰ろう。』


どうする家康

豊臣秀吉


2つの作品を通して、出て来た家康は

『臆病である』『石橋を叩きまくって渡る』

そういう人物像と私は読み解いてます。


それを踏まえて、私の勝手な想像話を聞いてください。


家康は、堺の船を使い、住吉大社信仰者だった佃村の漁師たちに船を操縦してもらい、三河まで帰った。そして、口封じのために江戸に呼び寄せ、特別待遇で、良い条件を与え、江戸城下に住まわせて監視していた。


これが正解じゃないのかな❓うーん


その頃の堺は一国くらいの力があってもおかしくない。鉄砲の火薬は、その当時日本では作る技術はまだなかったので輸入だった。そんな貴重なものを運ぶのに、護衛団がないわけがない。そして、火薬が手に入らないようになるのは諸国の大名も困るから、堺の船は襲わないという暗黙の了解のようなものがあったと思ってます。


じゃあなぜ伊賀越えのいい伝えがあるか?

船で逃げてる事から目をそらすために、伊賀越えの噂を流した。噂だけでなく影武者を使って、本当に伊賀越えさせたと思います。だって、石橋を叩いて渡るのではなく、叩きまくって渡る人だからです。

その影武者の名前は…

服部半蔵

伊賀忍者の血を受け継いでいる武将。

服部半蔵は、忍びの代表でもあり、影武者でもあったと私は考えます。それに、服部半蔵なら伊賀に捕まっても殺されないですしねウインク


私の想像話ですが…。


長くなってるので、一旦終わります。

次は、住吉大社について勝手な想像話を聞いていただきますウインク