■榎下(えげ)神社・・・群馬県安中市原市3451

 

関東平野のかなりな北西の端

以下順にマップを拡大します。

 

 

これが安中の領域

 

碓氷川、九十九川の氾濫とは無縁な安全な場所

 

 

河岸段丘に建っているようです。

 

街中ではあるのですが境内は静かです。

 

 

 

 

 

 

創建は1525年

安中氏が地主神・諏訪を城の鬼門へと移し、

その跡に越後・新発田から知賀戸明神を勧請した。

1713年に近津神社(本社は陸奥国一宮都々古別神社)とし、

明治期に榎下神社に戻した。

 

安中氏は初見です。

「安中氏は碓氷郡に古くから居た一族ではなく、越後国から碓氷郡の野尻・松井田へ移住してきたとされる。

近世に成立した史料では新発田から安中氏の移住を長享元年(1487年)とし、

貫前神社資料では永正4年(1507年)に安中顕繁がいたことが分かる。

戦国期の変転の末、1590年に安中氏は四散した」

 

安中氏は古代以来新潟から次々と関東へ入ったグループの1つだったのですね。

知賀戸明神は安中氏が故郷から持ってきた祭神でしょう。※1

 

安中氏が消えた後の領主が陸奥国一宮都々古別神社を持ち込んだのでしょうか?

都々古別神社は新潟とは全然違う福島由来です。

現在の祭神・味耜高彦根はここから来ていますね。※2

 

つまり大元の祭神はオオナムチだった、と。

 

 

ブロック塀は気にしないでおきましょう。

 

千木は女神、鰹木は男神

このパターンを見ると今までなら氷川かな?と考えていたのですが、

この後前橋の神社を訪問するうちに、大山祇とその長女・神大市姫だと考えるようになりました。

 

特に装飾はありません。

それもそのはず、大山祇は瀛(いん)氏ではないので。

 

こちらは境内にあったお社、左は稲荷

 

右は不明です。

 

 

石尊は「石」の神・大山祇と考えます。

おそらくはこの地の古い祭神

 

近くの墓地の墓石を拝見しました。主な家紋・姓は

武田菱紋、田嶋(九州王朝由来)姓

違い鷹の羽紋、高林姓(鷹林か? 草部吉見)

桜紋、櫻井姓(福岡・糸島の桜井神社を思い起こします)

 

どうも古い時代に九州王朝勢力が入っているように見えます。

 

「新全国神社検索」によればここ榎下神社の祭神は味?高彦根命、大穴牟遅神

 

味耜高彦根(ウガヤフキアエズ)は猿田彦と豊玉姫の間に生まれた男子

ということなんですが上で申しました通り、この祭神は後世に入ったものです。

 

大穴牟遅は古い時代に日本海沿岸を開発した祭神で別名・大国主です。

境内に石尊(大山祇)もありました。

大山祇は大国主の父。

 

大国主の名前は大幡主の配下になった際の名前です。

のでここ榎下神社に大穴牟遅の名前で祀られているということは、

実父・大山祇の配下として当地に入っているということではないでしょうか。

これは面白い考え方です。

 

以前の本海側の神社を見て回った際に「大国主」をよく見ました。

これは、彼が大幡主の配下として働いたことを意味しています。

 

ですが、群馬や埼玉北西部の神社を見てきますと、

「石」の神としての大山祇をよく見ます。

大山祇のようなVIPがド田舎・関東に来るわけはありませんで、

大幡主の配下になる以前の息子・オオナムチを使って関東に入り込んだと考えるのが自然だと思います。

 

ま、それにしてもオオナムチご自身が群馬に来たとも思えませんが。

どうなんでしょうかねぇ…

 

 

※1このレポートをアップした現在では栃木の全域調査を終えています。

その結論から申しますと、

知賀戸=千勝の名称を持つ神社は栃木、埼玉に散在し、その祭神をよく見るとどうも千勝=大己貴だと判断しました。

つまり中世に日本海側から安中氏は大己貴祭神を持ち込んだ、のでしょう。

そも古代から群馬は大己貴の支配域ですので、中世になって遅れてやって来た大己貴グループが安中氏だったのでしょう。

しかし中世はもはや大己貴の時代ではなくグチャグチャな動乱の時代ですので、

安中氏が頼るべき大己貴の以降はすでになかったため、安中氏はほどなくして消えていったのでしょう。

 

※2これも既に行った栃木調査によって判明したことですが、

栃木において味耜高彦根は大己貴の後継者であり、なおかつヤタガラスの血を受け継ぐ貴公子です。

群馬の大己貴、栃木の大己貴、この両者は別勢力と判明しましたので、

ここ榎下(えげ)神社の祭神、味耜高彦根と大己貴は栃木方面の勢力とも考えられます。