■大森神社・・・群馬県安中市中秋間741

 

関東平野の北西のはずれ

以下順次マップを拡大します。

 

安中のエリア

 

碓氷川が東へ流れる、おそらくは何度も土石流に現れた広い谷間

 

その北側の山地のふもと

山中から流れ出る秋間川の流域、この谷筋は「秋間」

 

その秋間川の谷間が最も狭くなる場所に大森神社があります。

ここは上流部を守るための重要拠点です。

 

周辺はこんな感じ

 

 

馬頭観音、馬を牽いて荷を運ぶ安全を祈願したもの

 

 

新田

 

 

柱、梁が白いとは

 

 

神額はありません。

 

本殿覆い屋

隠されてな~んも分かりません。

 

例によって近隣の墓地の墓石を拝見しました。

違い矢紋、入澤姓

五三桐紋、木暮姓、板橋姓

下り藤紋、大川原姓

車紋、桑原姓、佐藤姓

日負い鶴紋(初めて見た物部の家紋!)、大川原姓

 

「新全国神社検索」によればここ大森神社の祭神は

《主》大荒希女命、《配》須佐之男命、倉稲魂命、大山祇命

 

スサノオ、稲荷は瀛(いん)氏

大山祇は新潟・魚沼から山中を越えて関東入りした「石」の祭神

ここに2種類の出自を異にする民族が同居しています。

 

問題は大荒希女です。

 

上州まったり紀行」サイトによれば

「もともと飽馬神社だったといわれる。

弘治年間(1555~58年)に「飽馬」から「秋間」に文字が変わったとされる。
飽馬神社時代に洪水で社殿が流され、里人が樫の木に繋いで流出をくい止めたという。その場所の近傍(現在地)に遷座した際に、大森神社と改称したという」

 

大森神社はもともと飽馬神社だった、と。

飽馬=秋間、飽馬の方が古いのですね。

飽馬をズーズー弁風に発音すると「ぁンぐまぁ」「ぁンまぁ」なのでしょうね。

「馬」のことでしょうか?

 

さて今回の大森神社は上流から飽馬神社が流されてきたものということですので秋間川の上流を見てみますと…

飽馬神社がありますね。

早速行ってみました。

 

このような地形

 

 

 

 

拝殿の千木、鰹木ともに女神です。

赤いので稲荷かな?

 

 

本殿覆い屋

 

本殿覆い屋屋根の千木は女神、鰹木は男神

 

飽馬神社の祭神は《主》大日?命、豊宇気毘売神、倭建命

大森神社の祭神は《主》大荒希女命、《配》須佐之男命、倉稲魂命、大山祇命

大日?は大日孁(おおひるめ、天照)だと思います。

大日孁はどこにでもある祭神で決め手にならないです。

 

「飽馬」=「飽」+「馬」と分解して

「飽」=「あき」、「馬」=「うま、め」

つまり

「飽馬」=「飽」+「馬」=「あき」+「うま、め」→「あきめ」

「あきめ」に漢字をあてて「荒希女(あらきめ)」、尊称の「大」をつけて「大荒希女」

ということなんじゃないのかな?

つまり

大荒希女=飽馬=秋間

(女神ではなかった!)

 

上記3つの中で一番古いのは「飽馬」だと思いますのでズーズー弁による発音変化を想像すれば

「馬」→「ぅまぁ」→「ンまぁ」→「ぁんぐまぁ」→「あぐま」→「飽馬」

「飽馬」とは「馬」のこと。

 

つまりここ秋間の地は馬の牧場だったと考えます。

魏志倭人伝にある通り3世紀の日本には馬がいませんので、ここ秋間の地に馬を持ち込んだのは3世紀以降となります。

関東に大陸移民が押し寄せて馬を持ち込んだのでしょう。

ですが、須佐之男、倉稲魂、大山祇といった祭神も大陸由来ではあるのですが、3世紀よりも早い段階で関東に入っているような気がします。

つまり馬とともに大陸の戦国期さながらの戦乱を持ち込んだ大陸移民が、周囲から攻められることなく馬を生産できる安全な盆地がここ秋間だったのではないでしょうか。

 

本殿屋根の状況を考えるなら、千木は女神=倉稲魂(赤いから)、鰹木は男神=大山祇となりそうです。

 

最初に当地に入った祭神は、大山祇と瀛(いん)氏系・倉稲魂で、

その後に馬を生産する民族が入ってきて飽馬地名をつけたのだと考えました。

それが誰だったのかは不明ですが。(後に推定できました)