■威徳神社・・・群馬県安中市下後閑(ごかん)1247

 

関東平野の北西の端

以下順次マップを拡大します。

 

 

これが安中エリア

碓氷川流域です。

 

碓氷川の北側を東西に流れる九十九川

 

その北側山地のふもと

谷奥にあるのでこの南側一帯の支配者の位置づけかもしれません。

 

 

 

 

 

 

神額はありません。

 

 

本殿

 

井桁の中に梅紋

井桁は江戸期の井伊家だとお聞きしました。

 

やはり神社はこうでないと。

ギーガーはいません。

 

境内の祠

 

隣接した墓地の墓碑銘と家紋を拝見しました。

並び矢紋(服部、ヤタガラス一派)、鬼形姓、大塚姓

九曜星紋、永井姓

違い鷹の羽紋(草部吉見、阿蘇氏)、萩原姓、大塚姓、川島姓、千葉姓、堀澤姓

梶紋(諏訪)、茂木姓、原田姓

橘紋、榎本姓

下り藤紋、宇賀神姓

武田菱、藤巻姓

木瓜紋(ヤタガラス)、箕輪姓、三舩姓、須藤姓

車紋、佐藤姓

揚羽蝶紋、神宮姓

 

 

「新全国神社検索」によればここ威徳神社の祭神は

《主》大宮比売命、菅原道真

 

この大宮比売が誰のことだかよく分かりません。

百嶋神社考古学では豊玉姫=大宮売とされていますが、大宮比売が大宮売のことなのかな?

 

神社名の「威徳」は隣接している威徳山北野寺に由来するもののようです。

古今東西御朱印と散策」サイトによれば以下赤字

「13世紀、梅慶(ばいきょう)という者が東国へ下って亡くなった。

その後、慶秀という者が関東各地に寺院を造営し、1276年北野寺を開創した際に童子が現れ『お前の前世は梅慶で、成功するだろう。我は北野大政威徳天なり』と告げ、辺りは紅白の梅香が満ちていた。
 慶秀は建立した社を北野天満宮にちなみ後閑天満宮と名づけ、霊妙威徳の地であるが故に寺院を威徳山吉祥院北野寺と号したと云う。(上州後閑天満宮略縁起による由来)」

 

「威徳」とは有り難いという意味の言葉、でしょうか。

慶秀が後閑天満宮と名づけていますので、慶秀が当地にやってくる以前から当地は後閑だったのですね。

後閑はここいら一帯の地名のようです。

 

Wikipediaによれば…以下青字

後閑氏は岩松氏の支族。戦国時代には後閑城を支配した。

もともと後閑城は15世紀に信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれ、16世紀に後閑城に入ったのが北条政時。

新田景純は当初は丹生城を領していたが、後閑の領主・北条政時を滅ぼし後閑を領し、1567年に後閑城に入城して後閑を称するようになった。

その後の変転は省略しますが、どうも後閑氏は戦国の中で表舞台から消えてしまったようです。

 

いずれにしても戦国以前から当地は「後閑」と呼ばれていたのでしょう。

では「日本姓氏語源辞典」で「後閑」の分布をみますと、小地域でのトップが群馬県高崎市十文字でした。

十文字はここ後閑の北東10km、榛名山のふもとの斜面の集落でした。GoogleMapでその土地を見ますと後閑名称が見えました。確かにつながりがあります。

地形から見るにかつては土石流の多発地帯だったんじゃないのかな、と想像するような土地です。

 

その集落に1社だけ神社・車持(くるまもち)神社があります。祭神は

《主》車持公、《配》火産霊命、波迩夜麻毘売命

榛名山のふもとなので火産霊命、波迩夜麻毘売命は当たり前ですが、車持公とは??

(車持神社は後程レポートします)

 

玄松子の記憶」サイトによれば

「上毛野君豊城入彦命の後裔である射狭君の末裔で榛名山東麓一帯を統治していたという古代の豪族。

榛名山に登る東南の入り口なので昔から榛名神社の分霊及び車持乃公をいつきまつる境内の鳥居に掲げてある古い額面へ満行宮と彫刻がしてある」

 

「日本姓氏語源辞典」で「満行」姓の小地域分布の順位を書き出しますと

1 宮崎県 都城市 乙房町(約30人)
1 宮崎県 都城市 上長飯町(約30人)
3 佐賀県 佐賀市 下無津呂(約20人)
4 佐賀県 佐賀市 大串(約10人)
4 長崎県 平戸市 山内免(約10人)
4 福岡県 糟屋郡粕屋町 原町(約10人)
7 宮崎県 都城市 金田町(約10人)
7 福井県 福井市 北四ツ居(約10人)
7 宮崎県 北諸県郡三股町 長田(約10人)
7 福岡県 遠賀郡遠賀町 尾崎

都城がワンツートップです。

 

石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋・田の神・庚申塔・仁王像サイトによりますと1位の宮崎県都城市乙房町にある乙房神社の祭神は「たのかんさー」

百嶋神社考古学では「たのかんさー(田の神様)」は二人いて兄・大幡主、弟・大山祇

 

宮巡」サイトによりますと2位の宮崎県都城市上長飯町にある小鷹神社の祭神はイザナギ、イザナミとなっていて事情がよく分かりませんが、「都城の文化財」サイトによれば十八夜講の月待塔があるそうです。

待…読と強引に考えるなら、月読=大山祇です。

 

つまり、満行宮の額を持つ榛名山ふもとの車持神社の古い基層には大山祇が横たわっている、と考えました。

この大山祇は静岡・三嶋大社由来ではなく、新潟・魚沼から山中を越えて関東平野に入ってきた大山祇の一党、だと想像しました。

この車持神社のある群馬県高崎市十文字集落は最も「後閑」姓が多いです。

つまりは後閑一族は大山祇を奉じて日本海側から榛名山山麓に入った部族だったのです。

 

ここまでの展開をかな~り強引に接続することをお許しいただけるなら、

「新潟方面から山中を越えて群馬に入った後閑姓の人々(大山祇を信奉)が、土砂災害の危険な群馬県高崎市十文字から逃れ、10km南西の群馬県安中市下後閑の地に定住し、そこを後閑と名付けた」と想像しました。

戦国期の有象無象はずっと後の時代の出来事です。