荒川が山中から流れ出して暴れたであろうこの地域に入植した人々は、荒れ狂う自然の猛威と闘う一生だったと想像します。
抗いようのない自然の脅威に何度も打ちのめされながら、それでも何度も立ち上がっていった人々を尊敬します。
■稲乃比売神社・・・埼玉県大里郡寄居町鉢形2336
荒川の流れから少しだけ離れた高台にこの神社はあります。
高台と言っても住宅地であります。
こじんまりした境内です。
神紋はないようです。
拝殿内部には
本殿が収められていました。
拝殿にこれ以上手掛かりはありません。
こちらは古宮…とばかり考えていたのですが、近隣の有力神社のひな型と考えた方がよいかもしれません。
現地取材は以上となります。
では猫の足あとサイトを拝見しますと…以下赤字
祭神は稲乃売神
境内社は三島・市杵島・天神・疱瘡・稲荷合殿
古宮に収められているのは三島・市杵島・天神・疱瘡・稲荷合殿だったのでしょう。
問題は稲乃売が誰なのか、です。
創建年代等は不詳ながら、当地は男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定。
また渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所だったことから、「三代実録」の貞観17年(875)条に記載されている稲聚(いなつめ)神が祀られたのではないかと推定される。
(壬生吉志氏は、寺内廃寺(江南町)の造営や武蔵国分寺の七重塔再建など、古代武蔵の有力豪族)
また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「稲乃売神社」に比定されています。その後江戸期には氷川社と称し、明治維新後の王政復古を機会に社号を稲乃比売神社と改称している。
榎津、稲聚(いなつめ)、稲乃売、おそらくこれらは表記・発音が異なるだけで同じもののようです。
しかも榎津→稲聚(いなつめ)→稲乃売と変化したように見えます。
・榎津(えのつ)=「え」という船着き場
・稲聚(いなつめ)=「えのつ」+接尾語「め」と考えれば榎津という土地名だと想像できます。
ここで語頭の「え」と「い」の入れ替えが起こっています。これは東北弁特有のものだと思います。
「いいんでないかぇ?」「えんでなぇがえ?」と同様だと思いました。
語尾の「め」も「ぃなつぇ」という東北弁発音が「いなつめ」と整えて表記されただけ、のような気がします。
・「いなつめ」という発音を聞いた人はこれを「イナの女・娘・姫」と連想してしまい、「イナのメ」→「稲乃売」と表記した、と想像しました。
つまり稲乃売という人物が存在したわけではなく、「榎津」が長年をかけて人々の受け取り方・表記の仕方が変化しただけ、じゃないのかな?
『地理志料』では、稲乃売神と三代実録(875)12月の条に載る稲聚神(いなつめ)が同神で、更にこの稲聚の音と旧郷名・榎津(えなつ)の音が通じることから、当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。
古代の祭祀は、類聚三代格の承和八年(841)5月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し豊穣を願ったのであろう。
社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され幕末まで続いたが、明治初年に旧社名「稲乃比売」に復した。ちなみに社蔵の宝暦七年(一七五七)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。
現在の本殿は、安政三年(1856)の再建。
祀職は、天長一元年(824)以来の名家と伝える、相馬家が奉仕している。
途中で氷川信仰が入っています。
これも人々の連想がそうさせたのではないでしょうか。
「氷川の女神は(奇)稲田姫ちゅうそうだど」
「稲田…って、オラが村の稲乃売サマも稲だど! ひょっとすたら…」
「稲乃売サマは氷川の(奇)稲田姫だった、ちゅうことかえ?」
「そぉに違ぇねえだ!!」
といったことだったかもしれません。
ですが、さすがにそれではマズイってなって、どこかのタイミング(明治期とか)で元の稲乃売に戻した…ってことじゃないのかな??
つまり稲乃売は奇稲田姫とは明確に無関係だ、ということでしょう。実際今の境内には奇稲田姫は全くありません。
では大本の「榎津」「えの船着き場」の「え」とは何でしょうねぇ…これはちょっと分かりません。
想像の翼を広げるならば、この「え」は「い」だと考えることもできるでしょう。東北弁では「い」行と「え」行が入れ替わります。
「い」と言えば伊之大神=彦火々出見(=猿田彦、山幸、饒速日)です。
8世紀に百済人、高麗人が関東各地から武蔵国に移住してきたという記録があり、その地は現在猿田彦を祀る白髭神社が多いです。
しかし伊之大神という呼称は百済人、高麗人の入植した8世紀よりもずっと古いと思います。それこそ弥生期に関東へどっと大陸人が押し寄せた時代、関東の新世紀の時代じゃないのかな?