さて次の神社は都幾川を越えて北側に立地している利仁神社です。

 

■利仁神社・・・埼玉県東松山市下野本612

 

 

 

都畿川の北側にあたります。

普通に考えれば洪水多発地帯ということになります。

そんな場所に古墳を築いているということは、古墳を築造した時代にはある程度荒川水系が縮小していたのだろうと想像できます。

 

 

この利仁神社は将軍塚古墳という前方後円墳の上にあります。

 

何も語らない古墳

 

前方部と後円部の継ぎ目から入っていきます。

 

これは後円部を見上げている写真です。

右手に見える祠は…

 

 

稲荷でした。

 

後円部の頂上に拝殿

 

 

写真では見づらいですが、

 

瓦に崇神の神紋

 

では猫の足あとサイトを見てみましょう。以下赤字

祭神は藤原利仁鎮守府将軍(藤原系でした)

915年、鎮守府将軍・藤原利仁が下野にて数千の群盗※1を平定した(今昔物語集の芋粥)。比企郡内には利仁将軍の伝説が多く、比企能員に代表される大谷(現東松山市大谷)の比企氏や当地の野本氏はこの利仁将軍の子孫であるという。

当社は藤原利仁を祀る神社であり、内陣には藤原利仁像が安置されているほか、社宝に利仁愛用の弁当箱がある。その創建は923年と伝えられる。

 

ここ利仁神社が立地してる地点は都幾川と荒川に挟まれた沖積平野です。そこに将軍塚古墳という大型前方後円墳が7世紀に作られたそうでその意味を考えてしまいます。

ここの東には鉄剣銘で有名な埼玉古墳群があり、そこも大型前方後円墳です。

埼玉古墳群の一つが発掘され鉄剣が見つかっています。

その石室の素材が秩父産だったので、葬られた人物が秩父と深い関わりがあることが想定されます。

 

ここ利仁神社の立地する将軍塚古墳は埼玉古墳群の前方後円墳とよく似ていて、秩父方面出身者の古墳だろうと想像しました。石室の分析がなされればいいのですが…

7世紀にできたということなので、少なくともその数十年前のタイミングでここ利仁神社の周辺に秩父から進出・支配した勢力があった、と想像しました。

 

利仁神社に祀られている藤原利仁は911年に上野介、912年に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守国司を歴任し、915年には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧した、と。Wikipedia

 

900年代に中央から地方長官として下向した藤原氏の一員で、一種の英雄ですね。

藤原利仁を祀る神社を作るというは、私が追いかけている大幡主、スサノオといった2世紀の神様を神社に祀るということと全く同じだと思います。実在の英雄を語り継ぎ、コロニーのアイデンティティとして昇華する、ということですね。

 

 

※1群盗といって貶めていますが、これは中央の支配を受け入れない在地勢力のことでしょう。それを皆殺しにした、と。

900年代初めに関東に利権を確保しようとやってきた中央貴族の藤原利仁が、侵略しやすい当地を選び武力で自分のものにした、と。

しかし藤原利仁よりも以前の7世紀にも秩父から進出してきた侵略者が同じ場所に支配の象徴・前方後円墳を作っていた、と。その子孫を藤原利仁が蹂躙した、と見ることができます。

秩父勢の時代から藤原の時代へ。