前回の赤尾白山神社から越辺川を渡った東の対岸、吹塚八幡神社です。

 

■吹塚八幡神社・・・埼玉県比企郡川島町吹塚830

 

 

 

 

越辺川の自然堤防の上、住宅地の中にあります。

 

 

応神、スサノオ、火産霊、奥津彦、奥津姫

(また奥津彦だ…)

奥津彦、奥津姫は大正期に合祀されたそうです。

スサノオが説明されていませんねぇ。触れたくないのでしょうか?

 

拝殿正面

 

神額はありません。

 

小さい本殿覆屋がありますが何も手掛かりはありません。

 

そばにある小さいお社は御嶽でした。

 

猫の足あとサイトにも特に手掛かりになる情報はありませんでした。

境内掲示板の情報に戻ってみます。

 

祭神は応神、スサノオ、火産霊、奥津彦、奥津姫

応神がトップで華々しく書かれてますので、ここの主祭神という位置づけなのでしょうが、応神が覇権を握ったのは高良玉垂から九州の宗廟を奪った後ですので何と言いますかそれ以上でも以下でもありません。

(古来の九州王朝の血筋から見れば、新参者が恥ずかしげもなく偉そうな顔をしている、といったことなのでしょうか…)

 

スサノオが掲示板では無視されてしまっていますが第2位に書かれているので、この神社においては重要な祭神であるが触れることが憚られる、といったことなのかなと想像しました。

なので越辺川の川岸にあり舟運とも関連深い立地ですので、古い時代にはスサノオを中心に祀っていた氷川系であった時代もあったのかな? と想像するのみです。

 

火産霊=金山彦も古い世代の神様です。この越辺川の周辺では赤尾白山神社のレポートでも書いたように製鉄の痕跡を発見しました。そこには金山彦が一目連として祀られていましたので、そんなに離れていないここ吹塚八幡神社に群馬から下ってきた金山彦一派が入り込んでいても不思議ではありません。

 

問題は奥津彦、奥津姫です。

大正期に合祀されたそうで、荒神、火の神、竈の神ともされると掲示板には書いてありましたが、この説明だと金山彦になりますね。

百島神代系譜の三宝荒神系譜を見ますとちょっと不思議なことが示されています。

この系譜を単純に見ますと奥ツ彦が2人、奥ツ姫が矢印で2か所あります。これの解釈がうまくできなかったのです。

今もう一度ゆっくり見ていたのですが、長髄彦の右に奥ツ彦、その右におき)、その上にイン(発音)と書いてあります。

(別のみたらし団子系譜では金山彦のところに殷氏と書かれています。つまり金山彦は殷氏なのです)

これは長髄彦が殷氏直系なので奥(おき=殷)ツ彦、つまり「殷の殿様」とも呼ばれていた、と語っているのだと思いました。

 

では長髄彦とは違って、真ん中下あたりの大山咋を見てください。

右に同じく奥(オキ)ツ彦とあります。長髄彦と同じです。

 

これは、どっちが本当の奥ツ彦なのかといった問題ではありません。

長髄彦と大山咋は、両者ともにスサノオ直系、金山彦直系の殷氏の後継者なので両者を共に「殷の殿様」=奥ツ彦と呼んだ(あるいは自称した)にすぎないと考えました。

 

さて次は奥ツ姫の方です。

上図右下、大山咋と結ばれた鴨玉依姫の別名が奥ツ姫となっています。意味は当然「殷の姫様」ですね。

系譜をたどると鴨玉依姫は殷氏直系・金山彦の妹・イザナミの孫です。「殷の姫様」と名乗って問題ないと思います。

ところが、みたらし団子系譜を見るともう一人の奥ツ姫がいるのです(下図)。

大山咋の右に姉・奥ツ姫がいますね。

ですが上記の「長髄彦と大山咋は両者ともに奥ツ彦と呼ばれていた」を分かっていれば、大山咋の姉が奥ツ姫と呼ばれるのも自然だとわかるはずです。

大山咋の姉は大山咋と同様、イザナミから派生した殷氏の末裔だから殷の姫様=殷ツ姫=奥ツ姫と呼ばれたのだと想像しました。

 

これで奥ツ彦、奥ツ姫が誰のことなのか問題は解決したと思います。

(まぁ、大した結論ではないですが…)

 

ここからは単なる想像話ですが…

系譜を見ると長髄彦は大山咋より10歳以上年上です。順当に考えれば長髄彦の方が目上でしょう。

これってもともと長髄彦の方が先に「奥ツ彦」を名乗っていた、つまり殷氏の正当な後継者は俺なんだーっ!と自他ともに認めるような人物だったのではないでしょうか?

ところが長髄彦が反乱を起こして死に、うまい具合に同族対抗馬が消えたと考えた大山咋が「俺の時代が来たな」と考えて、殷氏の正当な後継者の称号「奥ツ彦」をいただいた…ということなんじゃないのかな??

実際、この後は大山咋の一人勝ちになります。

逆に言えば大山咋にとって長髄彦はすごく目障りな人物だったのでしょう。(聖武にとっての長屋王のように)

もっとうがった考え方をすれば、長髄彦の乱は大山咋のプロデュースによるものなのかもしれない、とさえ勘ぐってしまいます。※1

面白いですねぇ…

 

そんなことで2代目殷氏正当後継者の称号「奥ツ彦」を引き継いだ大山咋は、(2つ上の系譜をご覧ください)やはり殷氏の血筋を受け継ぐ鴨玉依姫とくっついて崇神を儲けます。

藤原源流の始まりです。

ここに至って、鴨玉依姫が奥ツ姫と呼ばれるのは分かりやすいですね。

 

では、もう一人の奥ツ姫、つまり大山咋の姉・奥ツ姫はどうでしょうか。

こちらも殷氏直系ですので奥ツ姫の称号にはふさわしい立場ですが、2つ上の系譜で長髄彦へ矢印が引っ張ってあるのが気になります。しかも長髄彦との婚姻を示す二重線でつながっています。

 

これを素直に解釈すると…

「長髄彦が反乱で殺される前、殷氏の棟梁たる長髄彦に取り入ろうとした大山咋が、姉を長髄彦に差し出すことで長髄彦に取り入ろうとした」ということを示しているんじゃないのかな?

ところがその後長髄彦が不名誉な死を迎え、殷氏の名跡をタナボタ式に手に入れた大山咋が何食わぬ顔で2代目殷氏の棟梁となり鴨玉依姫との婚姻を進め権力を完全に掌握した、と想像しました。

 

大山咋の姉・奥ツ姫のその後がちょっと気になりますねぇ…

 

さて話は元に戻ります。

ここ吹塚八幡神社の掲示板に書かれていた祭神を列記すると

応神

スサノオ

火産霊

奥津彦

奥津姫

です。

 

応神は後世ですので除外すると、なんと残り全員殷氏です!!

以前調査した入間川沿いの神社で、スサノオと金山彦の共存がよくみられたのですが、この両者の共存がよくわからなかったのです。「先に氷川が入って、後で群馬から金山彦がやってきた」程度に思っていたのですが、よくよく考えたらスサノオと金山彦はとても近い関係でした。

 

盲点やったで…

 

※1〇〇シ〇〇ーの死が〇ッ〇ーの采配によって進められた、かもしれないのと同じように。

ま、〇ッ〇ーにこれを命じた人物は別にいるのですが…

お前らいい加減に目を覚ませよっ!!と言いたいですね。

そんなことだから踊らされるんだよ…

それとも金さえ儲けてドバイにでも逃げたらそれでいいですか?