さてさて、北武蔵の重要拠点・大宮住吉神社へ向かいます。

 

■大宮住吉神社・・・埼玉県坂戸市塚越254

 

 

 

越辺川につながる支流から舟運のアクセスがよさそうな立地です。

 

 

 

 

境内は結構広いです。

 

拝殿

 

 

この神紋は後の調査で天手長男であると分かっています。

久留米地名研究会・古川清久氏は天手長男とは九州・壱岐の祭神ではあるが、ナガスネヒコのことであろうと見当をつけておられます。

「手が長い」、「脛(スネ)が長い」、どちらも手足が長い身体特徴を表しており、縄文~弥生期に関東に入り込んだ大陸・半島からの移住者の一派を表現している言葉だと思います。

 

 

左が拝殿、右が本殿

本殿屋根の千木は外削(男神)、鰹木は5本(男神)

 

こちらは境内社

右から

天満(菅原道真)

東照宮(徳川家康)

厳島神社(市杵島姫命)

稲荷

八重垣(スサノオ)

簸川(スサノオ)

八坂稲荷(スサノオ、宇迦の御魂)

八幡(ホムダワケ)

新旧勢ぞろいといったラインナップですね。スサノオが複数あるのは近隣の祭神を集めた結果だと思われます。

 

では猫の足あとサイトを見てみます。以下赤字

祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命

境内社は和歌宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社、塚越神社、国分神社、八幡神社、など

境内社が実地で見たものと食い違ってますねぇ。同じと思われるものを同じ色で表記します。

■和歌(若?)宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社、塚越神社、国分神社、八幡神社

天満、東照宮、厳島神社、稲荷、八重垣、簸川、八坂稲荷、八幡

なんともバラバラで分かりづらいですね。

 

埼玉の神社データベース「埼玉の神社」で神社の履歴を見ますと…

1)959年、当国住人・山田長慶が長門国豊浦郡勝山村楠野の住吉神社を奉遷した。

2)1058~65年、源義家が奥州征討の際此地を訪れた。

3)1180年、千葉常胤が和歌一首を奉献した。
4)1187年、源頼朝により当社は北武蔵十二郡の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭となった。また、源義家の御霊を勧請し塚越神社を建立した。

5)1429年、鎌倉公方・足利持氏が社殿を再建した。

6)1602年、徳川家康の江戸入府に伴い北武蔵十二郡の下知が下る。

7)明治期に塚越神社、国分神社、八幡神社、八坂稲荷神社が境内に合祀された。

 

明治期に合祀された祭神を取り除くと下のようになります。

■和歌(若?)宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社

天満、東照宮、厳島神社、稲荷、八重垣、簸川

 

上記の歴史を信じるなら、記録上一番古い祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命。

その後、頼朝が北武蔵の多くの祭神を集めて総社とした。

その結果が

■和歌(若?)宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社

天満厳島神社、稲荷、八重垣、簸川

といえるのかなと思います。

 

1187年は頼朝と決別した義経が朝廷と連携し頼朝に対抗しようとしていて、頼朝はその連携を分断し、奥州に逃げた義経を追い詰める…といった時期です。

そんな時期に北埼玉地域の神社をここ大宮住吉神社に統合した、というのです。明らかに義経をかくまった奥州藤原氏へ軍事行動を起こそうとする前段の「武蔵野寺社勢力を統合しよう」とする動きに見えます。(対奥州なので南武蔵は関係ありません)

ここ大宮住吉神社は頼朝の奥州に対する軍事行動の出発点ともいえるのではないでしょうか。

つまり

■和歌(若?)宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社

天満厳島神社、稲荷、八重垣、簸川

これら祭神を奉ずる武士団が頼朝に協力する勢力となり奥州藤原氏を殲滅した、ということを表すのだと想像しました。

 
さて、疱瘡神社というと武蔵野台地でもよく見かけまして、各時代を通じて天然痘退散祈願だと考えていました。しかし九州でも疱瘡神社は見られるということを久留米地名研究会・古川清久氏より伺いました。
天然痘というと聖武期に遣新羅使が持ち込んで、大宰府・京都をはじめとする全国で「本当の」パンデミックが発生、政府機能が停止するに至っています。
面白いのが、政府機能が停止するほどの事態にもかかわらず聖武は奈良大仏、全国の国分寺と民間の行基にやらせています。莫大な予算はすべて民間持ちです。
自分は何にもやらずに…
 
このころから同じなんだなぁ、あんたたちは
 
さて、検疫を設けずに通商を続けるわけですからその後も散発的に天然痘は流行しました。
そんな状況の中で天然痘退散の願いを込めてつくられた疱瘡神社の祭神が金山彦だ、と古川清久氏から伺いました。