高麗川を渡って西へと進みます。

 

■星宮神社・・・埼玉県入間郡毛呂山町下川原248

 

 

 

高麗川のすぐ西です。

 

といっても住宅に埋め尽くされていて地形もヘッタクレも御座いません。

 

まぁ、まだ参道だけでも残っていて良しとするべきでしょう。

 

境内に入るとかつての趣が髣髴とされますね。

 

拝殿

 

 

 

三つ葉葵

水戸黄門ファンにはおなじみですね。

 

祭神は天御中主

創立時期は不詳、星宮→妙見→星宮(明治期)

 

左が本殿覆い屋、右が拝殿

 

本殿に手掛かりはありません。

境内を見ていきます。

 

不明です。

 

こちらも不明です。

境内の御紹介は以上となります。

 

では猫の足あとサイトを見てみますと…赤文字

祭神は天之御中主神

境内社は富士仙元社、稲荷社、三峰社

縄文中期・弥生・古墳・奈良・平安の遺跡が地内にある。また当地は両墓制※1の行われる所として著名である。
当地方には、流星に対する信仰を源としたと思われる、星を祀る社があり、飯能長沢の借宿神社、飯能南の我野神社、名栗の星宮神社、毛呂山の出雲伊波比神社(飛来大明神)などである。当社もこれらと同様の信仰を持つ社である。
社記に「往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。慶安二年妙見社領七石を賜う、明治五年旧号に復し星宮神社と称す」とある。

明治五年に村社となり、同四〇年三月には字矢島の日枝神社、字船原前の稲荷神社を合祀した。

 

百嶋神社考古学では星宮をナガスネヒコとしています。

なぜ星宮=ナガスネヒコとしているかの理由は不明です。ただ北関東にはナガスネヒコ由来と言われる星宮が大量に分布しています。

ですが上記の文中で星宮=妙見とする理由が分かりません。

妙見に関しては久留米地名研究会・古川清久氏の考察が秀逸です。要約しますと…以下青字

かつて紀元前の中国大陸にて、中原に分布していた黎族は北方から侵入した漢族に圧迫され東南アジア山中から南シナ海、海南島を経て九州にたどり着きました。彼らは黎族と白族に大別され、黎族は阿蘇山中へと入り阿蘇氏へ、白族は不知火海沿岸を本拠地として火の国(肥の国)を建てやがて大幡主へと受つがれます。

この大幡主が信奉したのが天御中主(=白山姫=妙見)でした。

大幡主は列島各地を航海・交易・侵略しただけでなく東南アジア方面とも交易したと考えられ、航海には星座(北極星)を利用し方位を測定する技術が必須です。ので大幡主、白族は北極星(=妙見)と関連付けられたのです。


赤字の社記の部分を読みますと、往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する。とあります。

星宮と妙見(=北極星)とは本来関係ないです。ですが…

「星宮ってなんだべ?」

「んん~、よく分からんべや」

「夜空のお星さまだから、きっと妙見様に違いなかっべ」

「んだんだ」

と、どちらも星っぽいので混同されただけじゃないのかな??

そうやって妙見社と改称されたため「祭神も天御中主でいいんじゃね?」となってしまい、本来の祭神が全く分からなくなってしまった、んじゃないのかなと想像しました。

だって、往昔星宮と称したが、元和年間妙見社と改称する理由が分かりませんので。

 

ですのでここ星宮神社の本来の祭神は天御中主ではなく、(失われてしまった※2)ナガスネヒコだったんじゃないのかな??と想像するばかりです。

しかし、祭神が分からなくなっているにもかかわらず、明治期になって本来の「星宮」へ戻したというのがある意味凄いですね。

 

 

※1両墓制はWikipediaに詳しく紹介されていますが、遺体を特定の場所に埋めて別の場所で祀るという墓制です。

これについて詳しいことは分かりません。

関東では縄文期の墓制として再葬墓がありました。遺体を水辺にさらし、骨を洗ったうえで土器に入れて土中に埋葬するというものでした。

これは水辺に暮らす民族の墓制です。

ですが両墓制は洗骨しませんので、再葬墓(関東縄文人)とは異なる民族の習慣だと感じます。

 

※2おそらくは、長年隠しているうちに当事者たちさえも分からなくなってしまった…