(さぁ!今回は百島神社考古学的にちょっと面白いですヨ)
前回の大家神社からほど近く
■鶴明神社・・・埼玉県坂戸市森戸512
高麗川流域です。
周辺の状況です。高麗川の沖積平野だと思われます。
とても小さい神社です。
左手の建物が建っているところは一段高い河岸段丘になっています。
普通は神社の方が高い位置に建っているものですが、ここでは逆になっています。
本殿
左手には大きな寺があり、中世を通してかつては氏神の信仰を集めていた神社が寺勢力(中世武士団)の拡大により低い位置へと貶められたのかもしれません。
この神紋は鶴の丸、物部
本殿内部
梁の彫刻が鶴と太陽
本殿の裏
鶴、その下のデザインは何でしょうか??
いつもお世話になっている猫の足あとサイトを見ましても特に情報はありません。
周辺に鶴が多かったから…といった伝承があるのみです。
祭神は伊佐波登美神、真名鶴霊
Wikipediaによれば伊佐波登美は、垂仁天皇の御世に皇女・倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、この神が出迎えたとする、とあります。これだけだとなんとも受けとめ様に困りますねぇ…
いずれにしても意味もなく伊佐波登美という極めてレアな祭神を置くはずがないのですが…
伊佐波が「いざわ」、「いざなみ」と読めそうでなんとも。
伊佐波は発音を表記している、いわゆる万葉仮名で好字令以前の表現であることは分かります。
まぁ万葉集を子細に調べれば「波」が「は」「わ」「なみ」のいずれの発音なのかを分析はできそうですが、私はそのような作業にはあまり意味がないと考えます。
なぜなら、長い時代の流れの中で固有名詞の読み方・書き方は変化するからです。
例えば九州の福岡県「浮羽」です。浮羽は現在「うきは」と発音していますが、魏志倭人伝にもそれと思われる国名があり、その発音は「ふわ」です。※1
つまり
1)3世紀後半において九州筑後平野において「ふわ」と発音するコロニーが存在した。
2)それが好字令により「浮羽」と表記された。
3)漢字の音読み訓読みの混在により、「浮」を「うき」と読む者が自然に現れ主流になっていった。
4)「浮羽」を「うきは」としか発音しなくなった。
というプロセスです。
つまりここで何が言いたいかというと、「この漢字はこう発音するんだっっっ!!」と文系的固定的に決めつけるのではなく、そもそも人間のやることですから曖昧さがあり時代に従って変化もするのです。
発音を公的に制限した好字令以後も万葉仮名表現はたくさん残ったし、それも変化しつつ時代に生きた人々によって現実の中で使われたのです。
ですから「万葉集によるとこう発音するんだっっっ!!」的な、原理主義的取り組みはもうやめた方がいいと思うのですよ。生きた学問の邪魔です。※2
(まぁ、こんなこと言ってもせいぜい誤解されるのがオチなんだろうけど…)
話を元に戻しまして、紀伊半島東岸には伊射波神社があり浮羽の例から、「いざなみ」と発音→「伊射波」と表記→「いざわ」と呼びならわす、といった変化を経たのかもしれないと想像しました。
特に紀伊半島には熊野神社があり、(百島神社考古学では)イザナギと別れた後のイザナミが熊野不須美と名を変えて祀られています。つまり紀伊半島はイザナミと縁の深い場所になっていたわけです。
話が大回りとなりましたが、ここ鶴明神社の祭神・伊佐波登美の伊佐波は「いざわ」でも「いざなみ」でもどちらも正しい、となりそうです。
また、鶴明という名称の語源として「周辺に鶴が多かった」とありますが、現代では想像できませんが田、沼、川には古来より鶴・鷺が大量にいたのです。ですので、ここにことさら鶴が多かったからという由来説話は成立しづらいように思いました。だってどこにでも鶴がいるのですから。
ではなぜに鶴なのか…
当ブログをお読みの方にはもうお分かりと思いますが、鶴はナガスネヒコ、ひいてはナガスネヒコを信奉していたと思われる武夷鳥(=兄多毛比)のトーテムだと考えています。
そして百島神代系譜を見れば、イザナミとイザナギの子・スサノオの子がナガスネヒコなので、イザナミとナガスネヒコは祖母と孫の関係となります。
とすれば弥生時代のどこかのタイミングでここ鶴明神社周辺に入植したのは、イザナミ系ナガスネヒコを信奉する人々だったんじゃないのかな、と想像するに至りました。※3
こじつけだろ! と思われる向きもあろうかと思います。
別にかまいません。着想を語っているだけですので。
予告しておきますが、この入間川を越えて調査するシリーズでは現在もっと北へと進んでいきます。このブログ文章を書いている時点ですでに群馬県境まで訪れています。そこでもナガスネヒコの痕跡を見つけています。
これを一体どう合理的に説明できるのでしょうか??※4
氷川をキーワードに武蔵野台地・柳瀬川を遡上し、狭山神社で武蔵大國魂神社が北部武蔵野台地へと進出した地名痕跡「さ」を発見しました。
今は入間川の北側へと調査を進めている段階です。
藤原が捏造し正当化した記紀なるテキストを信仰するのか、それとも現実に各地の神社に残された痕跡を演繹するのか…
答えは明白です。
少なくとも私には、ね。
※1井上悦文氏による研究です。
※2だから平気で「えたもひ」とか言い出すんだよ!
※3ここまでの演繹は、久留米地名研究会・古川清久氏の御教示によるところ大です。
今回の鶴明神社をご覧になって古川氏はこうおっしゃっていました。
「猫の足あとサイトを見ると、『明治時代後期の神社整理令に際し、国渭地祇神社に(書類上)合祀されたものの、氏子はそのことを知らず祭祀を続け、戦後の宗教法人登記に際し合祀されていたことに気付き、改めて登記したとのことです。森戸下組で祀られています。』つまりこれが故意かどうかはさておき、結果として明治期の祭神統廃合によって祭神が失われてしまったケースが多々ある中で、そうはならなかった凄く貴重な神社です」
そんな神社に出会うことができて、本来の祭神を拝見することができ、偶然ではありますが求めても得られないような勉強をさせていただきました。
感謝いたします。
できることならば、こういった古代の祭神・信仰を残した神社には21世紀も長く存続してもらいたいな、と感じます。
(神社は観光地じゃねぇーんだよっ!!)
※4こんな基本的な話をワザワザしたくはないのですが、あまりにおかしなものの見方しかできない人が多すぎるので一旦書いておきますね。
現実をうまく説明できるのが優れた理論だと考えます。
目の前の現実をご自分の理論でちゃんと説明できなければ、理論がおかしいわけです。
ただそれだけです。
理系の研究者(まぁ日本においてはちょっとアレかもしれませんが)は日夜理論と現実の突合せをやっている訳です。現実の検証にさらされ続けている、ということです。
では神社、古代史の研究者?著述家?はどうでしょうか?
もっと根源的な話として、ご自分のカルマと神社・古代史研究は分けた方がいいと思います。
自分のちっさなプライドを満足させるために神社・古代史を利用しない方がいいです。
世の中に不要な情報が増えてエントロピーが増大する一方ですので。
ただし(以前にも書いていますが)あくまでファンタジーである、ということなら何を考え書いてもそれは当人のご自由ですが…