ゴールデンウィーク中は頑張ってアップしていたのでブログは1週間お休みしていました。
全国3億6千万人(笑)の当ブログファンの皆様お待たせしました。本日より通常営業を再開します。
前回まで飯能地域の調査を終えて、北上し鶴ヶ島市に入ります。
飯能から鶴ヶ島へは距離が少々あり、その間にも神社は多いのですが祭神を見ると取材しても無駄になりそうで、そういった神社はスキップしています。悪しからず…
■日枝神社・・・埼玉県鶴ヶ島市高倉36
この周辺は武蔵野台地とは違い、河川が多く台地を侵食しているためこの地域を移動すると緩やかな起伏が続くことに気づきます。水辺に関する地名が多く、古代から水の利用と水害の相反するテーマを消化しようとした人々の生活を想像してしまいます。
日枝神社はほぼ平坦な土地に鎮座しています。
祭神は大山クイ他4柱、滋賀県大津市の日枝神社から勧請した、という公式ステートメントです。
このエリアは大山クイが多いなぁ。
なぜにスチールの鳥居なのか…
拝殿
拝殿神額
拝殿の軒先
菊の御紋、三つ巴(大幡主)、そしてその下の彫刻は、鶴?龍?鳳凰? ちょっとよくわかりません。
本殿覆屋
周りの囲いは氷川、出雲っぽいですが
本殿覆屋の屋根瓦には三つ巴
これ以上の手掛かりはありません。境内社を見ていきましょう。
拝殿に向かって右側
左の石祠は赤く塗られていたようですが
側面には日月のデザインが…稲荷でした。
右隣の小さい石祠も稲荷でした。
こちらは拝殿に向かって左手には青い石祠があります。
先ほどの赤い祠と同じデザインで、この2つが拝殿を守るような感じで置かれているようにも見えます。
こちらも日月
愛宕神社(金山彦)でした。
さて拝殿から離れて、参道、拝殿に向かって右手には
鎮魂碑と
天神社(菅原道真)
では猫の足あとサイトのデータを見てみましょう。以下青字
祭神は大山咋命、相殿は天照大御神、家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神、木花開耶姫神
創建に関する伝承が2つあり1つは、高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したというもの。もう1つは、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したというもの。
明治期に神明社、熊野神社、浅間神社を合祀した。
天照大御神、家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神、木花開耶姫神はこのときのものですね。
現在の祭神・大山クイは高麗福信(709~789)が持ち込んだものということですね。当地に高麗人が入植していて、それは当然にも近畿政権の承認の上のことであろうと想像します。
つまりは近畿奈良政権が荒川流域のリバーパワー利権に食い込んだというかすかな痕跡と考えます。
拝殿左右にあった稲荷、愛宕がいかにも本殿の祭神・大山クイを補佐しているように見えました。
ここからは想像ですが、稲荷と愛宕が大山クイが入ってくる8世紀以前の祭神だったかも、と思いました。
特に愛宕(=金山彦)は上野(かみつけの=群馬)から下ってきたと思われる祭神で、これまで荒川西岸を北上してきてまま遭遇する祭神です。
稲荷もここの場合は、よくある正一位稲荷の体裁をとっていないです。とってつけた感がなくて、ひょっとしたら起源の古いものかもしれません。
近畿奈良政権が高麗人を使って荒川流域に食い込む以前の、ほんのかすかな痕跡らしきものに出会えたという話でした。