入間川を越えて群馬を目指す長い旅が始まりました。今回はその第1弾です。
■白髪白山神社・・・埼玉県飯能市岩沢533
場所は入間川上流域の飯能(はんのう)です。
入間川が山間から出て作った扇状地が飯能です。
その扇状地上、入間川にやや近い位置に白髪白山神社はあります。
白髪と白山が並列されています。両社は全くの別物で、両方が共存しているということですね。
境内
稲荷でもないのに、なぜに屋根が赤いのか??
祭神は白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)、白山菊理媛命、韓姫命(清寧天皇母)
白髪武広国押稚日本根子天皇はWikipediaによれば…
雄略天皇の第三皇子。母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。雄略天皇死去後、異腹の兄弟・星川稚宮皇子(吉備氏系)を殺害。(星川皇子の乱)。翌年に即位。
皇子がおらず、市辺押磐皇子(亡父・雄略天皇が殺害した)の子である億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見され宮中に迎え入れた。その後まもなく死去。
一言でいえば、変なプロフィールですねぇ。
上記の抜粋は日本書紀からですが、だいたい父・雄略天皇の事績記事が(何度も言ってますが!)隋の煬帝の事蹟文のコピペですから! なのでまぁまともに受け取らない方がいいでしょうねぇ。
いやいや、Wikipediaよく読んだら「日本書紀にある執政記事は二皇子の発見を除いて全て隋書高祖紀などからの引用」って書いてあるやん!
逆に言えば、日本書紀編集者からすれば雄略天皇と白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)は、ちゃんと書いてはいけない人物だったということでしょ!
そんな白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)がなぜに飯能に祀られているのか、です。
もうこれは想像するしかなくて恐縮なのですが、実母の韓姫命も祀られていることから見て韓姫命の出身氏族・葛城氏一党がここ飯能へ入植していたのだろう、くらいですかね。
余談ですが、葛城氏の有名人・葛城襲津彦の出自について、九州にある葛城神社(一言主神社、佐賀県三養基郡みやき町天建寺)のある三養基郡は葛城氏の最大拠点であったという久留米地名研究会・古川清久氏の優れたレポートがあります。
ぜひご一読いただきたいです。
白山菊理姫は東南アジアから漢族に追われて九州へとたどり着いた白族の頭領・大幡主の叔母さんにあたります。埼玉では白山姫、白山神社はよく見かけます。
さて境内社は大日孁貴神、天満天神、大山祇神、大国魂神、倉稲魂、比売神となっています。こちらは後程…
本殿覆屋
こちらの屋根も赤い。神紋は見当たりません。
さて境内社ですが
祭神は不明
近くにあるらしい加能里遺跡についての掲示板がありました。
縄文期には集落があり、弥生期と古墳期には無人となり、古墳期後期に再び人が住み始めたとのこと。
狩猟採集には向いていて稲作ができなかった事情なのでしょう。
面白いのは地名です。加能里とはカヌー、つまり丸木舟を製造していた地名だと思います。「邪馬台国はなかった」の故・古田武彦氏も著作の中で「狩野」について同様な解説をされていたのが懐かしいですね。
カヌーは太平洋沿岸、特に南方からの移民が使っていたもので磨製石斧と関係が深いです。つまり南方からカヌー丸木帆船に載って列島へとたどり着いた人々は、行く先々で船を新調するために磨製石斧で木を伐採していた、ということです。
河川が移動ルートになっていた時代は(現代の軽自動車のように)丸木舟が重要必須な移動ツールだったのです。その製造拠点がここだったのでしょう。
かつて武蔵野を覆いつくしていた雑木林の雑木では丸木舟を作るには細くて、やはり山間部から切り出した大きな樹木が必要だったのではないでしょうか? ここは山間から入間川が流れだしている地点ですので、木材の集積・加工に都合がよかったのだろう、と想像しました。
境内の片隅に
右は不動尊で
天照と刻んであるようです。
境内社はなかったのですが、猫の足あとサイトに載っていた境内社を見てみます。
大日孁貴神=天照ですので、上記の石がそれでしょうか。こんな格好で置かれているとは、結構古い時代に入ったということなのかな??
天満天神=菅原道真、まぁどこにでもあります。
大山祇神、これもまぁどこにでもあります。
大国魂神=大国主と考えましょうか。大山祇と大国主は親子で近畿奈良政権の象徴とも考えられます。
倉稲魂=稲荷
比売神、これが分かりません。誰の姫なのかと考えれば白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)の姫ということなのでしょうか?? 日本書紀では妃も子供もいなったとされていますが?? はてさて…