霞川をさかのぼって青梅の谷間の入り口まで入り込んだわけですが、遡上はいったんここまでで近隣の博物館に行くことにしました。
■青梅市郷土博物館・・・東京都青梅市駒木町1丁目684
目の前を多摩川が流れています。
こうやって見るとそれほどの大河でもない感じです。
館内の年表によりますと
この周辺には縄文期に集落はあり、弥生期には(これまで取材してきた)霞川流域で稲作をやっていた、と。
古墳期の3~4世紀に霞川流域に大集落ができる。(下図点線)
館内の年表から主だった出来事を抽出しますと…
703年に府中武蔵国府できる。
800年代、関東武士の活躍が始まる。
939年、平将門の活躍。
1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開く。
1333年、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす。
以後、中世から戦国へ…
って、肝心の弥生期~古墳・奈良期が無いーーーーっ!!
このパターン、多すぎじゃね?
弥生期(2300年前~1700年前)には霞川流域で稲作が行われていたそうです。
上図が弥生期の集落の分布赤●です。
現在よりも川の流域が広く、霞川流域だけに稲作コロニーが点在しています。入間川下流流域がこの時期無人だったのに、稲作ができるために入植が進んだのですね。
では次に
古墳期のコロニーの分布を示したのが上図青●です。
明らかに増えています。
そして次には
奈良期のコロニーの分布を示したのが黄色●です。
明らかに増えただけでなく多摩川流域にまで進出しています。この分布から想像するに、多摩川をさかのぼってきたのではなく、霞川から侵入したように見えますね。
阿蘇系の神社が霞川上流~多摩川上流に散見されたので、阿蘇氏はこの時期に侵入したのではないでしょうか。
ここ青梅市内には古墳がないそうです。古墳を作るような有力な首長がいなかったということでしょう。
霞川も多摩川も上流には何もありません。他国へと通じる細くて険しい道があるのみです。ですので交通路以外の生産性につながる要素はありませんので、決して豊かな可能性ある土地という訳ではなかったと思います。
8世紀以降になって多摩川下流域の木材需要にこたえるべく多摩川流域が成長したようです。
中世に入ると青梅は三田氏によって支配された、と。
といったところが青梅の古代から中世初頭にかけての歴史だったようです。
正直言って、もっと詳しい資料が欲しかったですねぇ。残念…