前回レポートで入間市地域への入植が奈良時代に再開されたとわかりました。

つまり入間地域の神社はこの時代に侵入してきた民族・コロニーによる痕跡を残しているかもしれません。

上図は前回でも出ました奈良期~平安期の入間地域の遺跡分布(黄色い部分)です。

ほぼ稲作は無理な地域で、加治丘陵の名前の通り窯業を中心とした第2次産業工業団地として復活したのだと思います。遺跡分布をよく見ますと霞川北岸にズラッと並んでいます。南東からの風を利用して加治丘陵の斜面で窯業を行いやすかったのでしょう。さらに生産した製品を霞川から入間川へ下し荒川の交易交差点・川越へと出荷できます。

 

上図をGoogleMap上にプロットしたのが下図です。

半透明黄色が奈良期~平安期の遺跡で、鳥居マークはGoogleMapで検索した付近の神社です。

奈良期~平安期の遺跡と関連ありそうだと感じた神社が白い鳥居マークA~Nです。

 

入間川北岸の大きなコロニーと神社A、Bだけ異質です。

氷川神社を中心とした関東開拓フロンティの時代が終わり、近畿奈良・京都政権による支配が武蔵大國魂神社から荒川流域へと浸透していった奈良期・平安期。

平安期の終わりには近畿が関東への支配力を失い、源氏による鎌倉政権が生まれます。それも群馬の新田、次に栃木の足利により取って代わられます。群馬でゲリラ戦を展開する新田を抑えるため、足利基氏が入間川南岸に布陣していました。

その後、小田原の後北条氏が足利・上杉を川越夜戦で破り関東一円を支配します。

この時代に加治丘陵の加治氏は本家・分家に分かれ変転したようです。

北条氏康判物(1561)によれば、この時点ですでに加治丘陵のC~Nの領域は金子氏(狭山丘陵北麓の出雲祝神社近くに本拠を置く武士団)の所領になっていて、加治氏は入間川北岸Bに拠点を持っていたようです。

1561年までに加治氏は入間川を越えて北側へ移転していたのですね。しかし後北条政権下で加治氏は移転、離散して、一部は飯能で暮らしたようです。

飯能には丹生神社があります。加治氏はもともと丹氏の一派だそうで(Wikipedia)宣化天皇の血を引き原初は秩父に拠点があった、ということだそうです。※1

これは鍛冶氏の家紋「立ち梶の葉」です。メノラーに関連付けられそうですね。諏訪と関係あるのかな??

それとも加治(鍛冶)と梶(かじ)の単なる語呂合わせなのか…※2

久留米地名研究会・古川清久氏によれば「筑豊から全国へと逃れた物部氏が鉱山開発・製鉄などで生き延び、その一部が諏訪へとたどり着いた。その一派が諏訪の梶家紋を携えて秩父のたどり着いたと考えてよい」とのことでした。

また、鍛冶というと普通は冶金と考えてしまうのですが「窯業も冶金も作っている品が異なるだけで両方とも鍛冶と考えてよい」とのことでした。要はその時その時の需要によって変化するということでした。

納得…

 

丹生は水銀を意味し、鉱物資源を採掘加工する民族を表します。群馬(中央構造線の東端)では水銀採取に直接関連する地名を見つけていましたが、ここ入間や飯能では鉱物資源とは関連なさそうかな? 昭和期に飯能の山奥ではマンガンが採掘されていたそうですが関係あるのかないのか…

 

さて話を戻します。

奈良時代になって窯業・鍛冶業を営む民族が加治丘陵に入ったことが入間の開発の始まりだったと考えられます。加治のネーミングの通り窯業・鍛冶業に有利な加治丘陵南斜面に集落が集中し、生産物を入間川で輸送できるいい立地だと思います。

それをやったのが秩父から出た加治氏(丹氏)だったのでしょう。

GoogleMap上で拾ったD~Nがその痕跡ぽく見えます。

 

A:(欠番)

B:野田白髭神社(埼玉県入間市野田562−1)猿田彦

C:(欠番)

 

D:氷川神社(埼玉県入間市高倉4丁目4−7)スサノオ、境内社は八幡、浅間、小御嶽、秋葉、石尊

E:中野原稲荷神社(埼玉県入間市上小谷田1丁目1−5)

F:氷川神社(埼玉県入間市小谷田1474)スサノオ、境内社は八坂社・稲荷社・沢社、大若神社

G:八坂神社(埼玉県入間市新久948)スサノオ、相殿は大己貴尊、櫛稲田姫尊

H:(欠番)

I:伏見稲荷神社(埼玉県入間市根岸446)倉稲魂命

J:山祇神社(埼玉県入間市花ノ木16)大山祇

K:愛宕神社(埼玉県入間市以下不明)愛宕権現

L:八幡神社(埼玉県入間市上谷ケ貫679)品陀和気命、相殿は稲倉魂命、境内社は伊勢神社、津島神社、迦具土神社、浅間神社、諏訪神社、菅原神社、三峯神社、護国神社

M:金子神社(埼玉県入間市西三ツ木23)スサノオ

N:白鬚神社(埼玉県入間市寺竹853)白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)武内宿祢命、猿田彦命、境内社は金刀平羅神社・敷島神社・権現社

(参照ページは猫の足あとです。いつもお世話になっています)

 

まぁ見事にバラバラですが、ここに入植した時代は千年以上昔ですので仕方ないです。これらの中に痕跡が残っていることを祈って現地調査に向かいます。

 

 

※1秩父は関東平野の西の山中にある谷間なのですが、どうも歴史的に秩父から荒川流域へと進出するケースが多いんですよ。一体こんな狭い谷間から進出して出てくるとはどういうことなのか?!

戦国武将の先祖は秋の収穫期に山間から下流平野へ略奪していた、という久留米地名研究会・古川清久氏の話を思い出します。

 

※2加治(鍛冶)と梶(かじ)は単に似ているのではなく、諏訪から秩父経由で加治丘陵に入り込んだ「梶紋を持った人々」がここで鍛冶業を始めたことに由来する地名ネーミングではないか、と想像しました。

梶紋は諏訪神社(タケミナカタ)とされますが、本当にタケミナカタの神紋が梶紋なのかどうかよくわかりません。

というのも、タケミナカタは九州から諏訪へと逃れてきた者で、それ以前に諏訪を支配したと思われている物部とうまく融和したように見えます。

梶紋はよくメノラー(ユダヤ教の蠟燭立)だといわれ、物部が持ち込んだと思われます。

ですので、ここ入間台地において梶紋があり、なおかつタケミナカタではない諏訪神社があるとするとそれは物部が入り込んでいるといえるでしょうね。