前回までは砂川河口から新河岸川をさかのぼり川越氷川神社に到達しました。その間に見た神社は氷川の看板を掲げていてもどうも氷川っぽくない神社でした。

原初の氷川なら奇稲田姫もいていいはずだし、千木・鰹木もあっていいと思いますが、ないのです。

その理由として想像したのは次のようなことでした。

 

兄多毛比(えたけひ)が氷川族※1を引き連れて関東に設立したという氷川神社群、それは九州勢力による関東開発の初期の大きな動きだったと思います。彼らは荒川を中心に水運を支配したと思われます。

その後武蔵大國魂神社を代表とする近畿奈良政権の力が府中→狭山→荒川沿岸と北上・浸透するにつれ荒川沿岸の氷川神社に影響するようになった、ように見えます。氷川神社の祭神に大山クイが入るようになるからです。

大山クイは崇神の実父ですので、近畿奈良政権のアイコンとして矛盾しません。

 

さらに中世になり関東武士団の時代がやってきて、ランドパワーの彼らがなぜかスサノオ(シーパワーならぬリバーパワー)を信仰し始めることでスサノオ氷川が復権した、と今のところ想像しています。

 

そんな荒川中流域西岸の状況が理解できたところで、今回は不老川の北側にあります入間市博物館ALITにお邪魔します。

 

■入間市博物館ALIT・・・埼玉県入間市二本木100

 

 

半透明青の部分はかつての古荒川湾であったと思われる場所を示しています。

 

2万年前までここを流れていた大河・多摩川が地殻変動によりはるか南方へと移動し、不老川を残しました。

不老川はかつての多摩川の川底を一筋残したもの、と言えるでしょう。

 

 

これは入間市博物館ALITから南方を見た写真です。

地平線に見えている低い山は狭山丘陵で、手前から不老川へ向かって緩い下りになっています。

 

これは地形模型で、上が南になっていて、中央の船のような形が狭山丘陵です。

船のへさきの右側、谷間から川が上へと流れていますがこれが現在の多摩川です。流れ出しの谷の出口が青梅です。

この多摩川が2万年前までは青梅から左(東)へ流れていました。狭山丘陵の下(北)を東に向かって流れていたのです。その流れの痕跡が現在の不老川なのです。

 

では館内へ進みましょう。

これは付近の地形を別アングル(東から)で見た俯瞰図です。青梅から流れ出した古多摩川が狭山丘陵の北側に広い谷間を作り出していたことがわかります。

黒ラインの断面図が下図です。

古多摩川が広く削った土地を今は不老川がチョロチョロ流れているだけです。

その右(北)の金子台、その右(北)が霞川により抉られた谷になっています。霞川は青梅から出ている川で下流で入間川と合流します。

霞川の右(北)は加治丘陵。これは鍛冶業の地名だと思います。ちょうど南東からの風を受けやすく窯を設置するのに好都合な場所だったのでしょう。

加治丘陵を右(北)へ越えるとぐっと下がって入間川の渓谷に出ます。これを境にして地形が異なるようですので、関東への入植者も入間川をボーダーにしやすかったでしょう。

 

こういった状況を理解すると、武蔵野台地に弥生期にコロニーが少なく、入間台地にはウジャウジャあるというのも分かりやすいです。

 

赤が縄文遺跡です。最盛期は5400~4400年前で、それ以降は急速に減少し3000年前には消滅したようです。

14が元狭山神社、15が出雲祝神社に近く、縄文のころから人が住みやすい場所だったとわかります。

霞川流域に顕著に集まっています。なぜだろう…※2

入間川北岸に1つだけ大きな集落がありますね。これも意味があるのだろうけどよくはわかりません。

 

3000年前には無人となり、弥生期~古墳期になってもここは無人だったそうです。稲作できなさそうだもんね。

荒川西岸でいえば弥生期~古墳期には、入間川より北がにぎやかですが入間付近は無人です。

まぁ、ここでいう弥生期、古墳期が西暦のいつなのかは不明ですが、ね。※3

 

こちらは時代が下って奈良期~平安期遺跡の分布です。縄文期と同じですね。

弥生期に無人になって、その後奈良期になって同じ場所に人が戻ってきたということですね。

12の出雲祝神社付近は健在ですね。やはり重要な場所だったのでしょう。

霞川北岸は加治丘陵の名前の通り、南東からの風を受けやすい鍛冶業に向いた場所で実際瓦などの生産拠点だったようです。

 

こちらは中世まで時代が下って武士団の分布を示したものです。

中央から管理者として派遣された者が地付きの勢力と婚姻し秩序を書き換えていきました。大雑把にみると荒川沿岸リバーパワーというよりも台地上のランドパワーと言っていいように見えます。氷川を中心とした古代からの秩序が大きく変わったということでしょう。上道、中道、下道と道路をベースにしているのがその表れです。

(この時代でも武蔵野台地は希薄ですね)

 

中世武士団の丹党は入間川上流に分布しています。中央から秩父の管理者として派遣された者がその後分岐し加治丘陵に入って加治氏となったそうです。つまりもともと加治と呼ばれていた土地に入ったから加治氏となったわけです。

それ以前から加治丘陵は鍛冶業の盛んだった場所といえると思いました。

 

同様なケースとして村山党がいました。

村山党は狭山丘陵西端に入植し勢力を広げたそうです。このネーミングも村山という土地に入植したから村山氏となったのだろうと推測します。つまり村山党入植以前から村山と呼ばれる土地だったと思います。

久留米地名研究会・古川清久氏によれば、ムロ・ムラという言葉はイスラエル系・トルコ系匈奴の持ち込んだ地名だそうです。

神社調査もこの後青梅に向かって西へ進んでいきますが、そこでは金山彦・スサノオ系の神社が点々と並んでいましてトルコ系匈奴がコロニーを作った証のように見えます。

 

また中世以前から寺院建築が増え、神社を象徴とする氏子(同一民族)の連帯から地縁(一所懸命)をベースとした寺院へと信仰が変わっていったのかもしれません。秩序の再編、New World Orderです。蝶野ではありません(笑

 

中世以降なんとなく神社、祭神が意味を失っていくように感じていたのですが、こういった理由によるのかもしれません。時代の変遷ですね。

中世の歴史も変転が激しくて興味深いのですが、このブログでは百嶋神社考古学をベースに2~3世紀に九州を中心に実在した神々を元に関東の古代史を考察していきたいと思ってます。

 

 

※1漠然と「氷川族」という表現を方々で見てきましたが、その実態について解説したものに出会っていません。兄多毛比(えたけひ)の親族と考えるのが自然でしょう。

となると、

兄多毛比(=武夷鳥、たけひなとり)の母・オキツヨソタラシ姫

兄多毛比の叔父・ナガスネヒコ(オキツヨソタラシ姫の兄)

兄多毛比の祖父・スサノオ

兄多毛比の祖母・クシナダ姫

といった母方の人々の関係者が兄多毛比に協力したのかな、と想像します。

で、彼らは同族とはいえ競合相手でもあるので(〇ス〇〇イ〇〇みたく)、別々の名前で関東に入り込んでいるはずです。それが氷川、鷲宮、星宮といった格好で神社の痕跡として残された、と考えています。

 

※2縄文遺跡なのになぜか入間川のすぐそばに集落が集まっているのは、稲作のためではないと思います。

これは川での漁業をしていた集落だと想像しました。

江戸期までは全国の川で鮭の遡上が見られた、という文章を富山和子氏の著作で読んだことがあります。

川沿いの集落は鮭漁のための集落だったのではないでしょうか。

 

※3いつも思うんだけど、地域によって時代区分がずれて当然なので、専門家の認識でははっきりしてるかもしれんけど一般人に向けて具体的に西暦で書いてほしいんですよ! ま、それができない理由もなんとなくわかりますが…