前回より引き続いて不老川を遡ります。今回は不老川を挟んで2つの神社を紹介します。

 

■野々宮神社・・・埼玉県狭山市北入曽276

■入間野神社・・・埼玉県狭山市南入曽640−2

両者の住所をご覧ください。「入曽(いりそ)」=「そ」に入る、という意味なのかなと感じました。

「そ」はこれまでさんざん追ってきた「砂」「蛇」といった地名と同じもののように感じます。

つまり入曽とは「さ」の領域に入る、という意味で不老川を遡上してきた者が「ここより上流は「さ」の領域に入るんだ」という意味だと想像しました。

 

 

前回の堀兼神社より少々上流。

 

野々宮神社と入間野神社は不老川を挟んで立地しています。

しかもご丁寧に、両者の間を抜けるように街道が走っていますね。掘兼神社の状況と似ていますが、この街道の成立は不明です。

 

今回は野々宮神社を、次回で入間野神社をレポートしようと思います。

 

神武東征に従い日向から大和へ、そして三兄弟が東国へ派遣され、長男は高麗へ、次男は狭山へ、三男は鴻巣へ移った、と。

祭神は倭姫、天照、スサノオ、大国主、ヤマトタケル、加具土命、少彦名、若宇加能売、と。

 

日本神話では倭姫は伊勢神宮の鎮座地を求めさまよったとされています。

倭姫については久留米地名研究会・古河清久氏の記事が相当突っ込んで書かれています。画期的な内容ですので是非(ゼッタイに!)ご一読願いたいのですが、以下にかなり簡略に書いておきます。

 

アコギという亜熱帯性樹木が九州西沿岸によくあり、以前ブログでもご紹介しております。

伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕(あこぎ)が浦」には北限を超えるためアコギが群生していません。そこで阿漕地名が九州西沿岸から持ち込まれた地名ではないか、という推論です。

続群書類従によれば「倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村秀己氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」

7つの島については熊川河口沖に小島が点在し、現在は陸地化しているがかつては島であったと思しき地名も散見される。また淡水の表現については球磨川の伏流水によるものだと想像できる。

では伝承の面では、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?という疑義が提示されています。

 

倭姫の業績について一般とは異なる解釈を示しました。

そこで倭姫の出自を見ますと、百島神社考古学では椎根ツ彦の娘となっています。椎根ツ彦は崇神の弟で、まぁ主流派といってもよくて、倭姫も同様でしょうね。

そのほかの祭神も主役級です。若宇加能売は宇加能御魂(伊勢下宮様)と考えます。

 

ヤマトタケル東征、死後にヤマトタケルの叔母※1・倭姫の一族がこの地に入植した、と。

明治期に蔵王神社、八雲神社、愛宕神社、神明社を合祀した、と。

オリジナルの祭神がいまだにトップに据えられている珍しい神社だとわかりました。

 

 

むむっ! 隼人盾の模様か?

 

 

拝殿、千木は内削(女神)、鰹木6本(女神)

 

神額が横書き

 

拝殿内部

 

本殿も女神

 

竹林の奥には

 

左は八雲と稲荷、右は稲荷大神と「御魂霊神」。誰の事??

 

 

ということだそうです。

 

神紋は丸に蔓柏

 

 

※1百嶋神社考古学では倭姫はヤマトタケルの叔母ではありません。ぜんぜん関係ないです。