前回は新河岸川と不老川の合流点に近い砂氷川神社をレポートしました。

今回は不老川を遡って堀兼神社を訪れます。

 

■堀兼神社・・・埼玉県狭山市堀兼2221

 

 

前回は不老川河口でしたが、今回不老川中流まで遡上します。

 

堀兼神社は不老川の南岸に位置していますがそれだけではなく、東山道武蔵路にも面していて交通の要衝であることが明白です。

東山道武蔵路は群馬(上毛、かみつけ)・栃木(下毛、しもつけ)と武蔵大國魂神社を連絡する幹線道路と言われています。古代の幹線道路と言われるものは全国にあり、地形にあまり影響されず比較的まっすぐに走っているのが特徴です。

東山道武蔵路も例外ではなく、上図のとおり地割・河川と関係なく直線的にひかれています。

 

 

 

 

祭神は木花咲夜姫

大山クイ他5柱を合祀している、と。

 

随神門をくぐると…

 

ここいら一帯は真っ平らな武蔵野台地なのですが、社殿の立っているところだけ丘になっています。

これは人間が積み上げたものなのかな??

 

拝殿の屋根、千木は外削(男神=大山クイ?)、鰹木が偶数(女神=木花咲夜姫?)

 

これは本殿屋根を横から

 

神紋は豊玉彦

 

随神門の左には

 

小御嶽神社

 

 

随神門に向かって右手には

 

稲荷

 

牛頭天王(スサノオ)

 

八坂神社(スサノオ)

おやおや、スサノオが並んでますよ。

 

こちらは

 

えびす、大国

 

こちらは随神門に向かって左手

左は天満宮、右は天満宮と金毘羅

 

そしてこれが堀兼の井

 

堀兼の井というものがいくつもあった、と。

 

さて祭神分析ですが、狭山市サイトによりますと

主祭神は木花咲夜姫、合祀は大山クイ・天照・加具土命・スサノオ・倉稲魂、となっています。

想像ですが本殿の建っている場所がまるで人工的に積み上げた丘のようなので、これは江戸期の富士山信仰が流行ったときに作られ木花咲夜姫が祀られたんじゃないかな?

なのでそれ以前の祭神は合祀された神様の中にあると考えます。

大山クイは(これまで何度も解説していますが)藤原のアイコン・崇神の父ですので※1、武蔵大國魂神社の力が北部武蔵野台地に及んだ時代に祭神として入れられたのでしょう、と解釈します。

次に加具土命ですが、=金山彦です。

金山彦は埴安姫とセットになって群馬でよくみられる祭神です。それが遠路はるばる利根川、荒川を下り武蔵野台地にまでたどり着いた例を以前に榛名神社(埼玉県富士見市勝瀬791)にて紹介しました。この榛名神社だけに限らず、金山彦と埴安姫のご夫婦は武蔵野台地にまま見られます。

 

そして問題のスサノオです。

境内末社でも見ていただいた通りですが、スサノオを祀る社が2つあります。

これまでもスサノオが重複しているケースを見てきましたが、末社として2つ並んでいるのは初めて見ました(と思います)。

可能性は近隣の別神社から集められた際に一つにすることなく、律儀に分けて祀ってあるという解釈。

もうひとつは、氷川神社群が荒川流域に展開した時代(おそらく2~3世紀)にここ不老川に侵入した原初の氷川が持ち込んだスサノオがあった。やがて武蔵大國魂神社勢力が武蔵野台地を北上するにあたってスサノオが主祭神から降ろされ大山クイが据えられたのが7世紀以降。そしてさらに時代は下り中世になって近畿政権の関東に対する支配力が消え、関東武士団の跋扈する時代にスサノオ信仰が復活した。そして江戸期には富士山信仰の大流行により木花咲夜姫が主祭神の座に収まった。

といったことなのかなと想像しました。

 

堀兼の井という名前の井戸が方々にあったということですが、武蔵野台地では水場がなくて井戸の需要があったとはわかりますが農業のためというよりは、群馬と武蔵大國魂神社を結ぶ東山道武蔵道を行き来するために作られたんじゃないのかな?

 

 

※1当ブログでは神々の解説は百島神社考古学に基づいており、一般的な記紀とは別解釈となっています。