前回は砂川沿いの大井氷川神社をご紹介しましたが、今回は砂川下流の新河岸川との合流点に近い榛名神社をご紹介します。

 

■榛名神社・・・埼玉県富士見市勝瀬791

 

 

狭山丘陵北麓から流れ出した砂川が新河岸川へ流れ込む北岸に榛名神社は位置しています。

 

町割りから想像する古代の水場を半透明青で塗りつぶしてみました。

榛名神社は水場の中にポツンと立っている感じです。

 

銀杏の美しい境内でした。

 

神額の上をよく見てください。

 

鶴は天鳥船(=ナガスネヒコ)を表していると考えます。

同時に鷲宮神社の祭神・兄多毛比(えたけひ=武夷鳥)を表現していると考えます。※1

それがこんな「痕跡」としてあるということは、ここ榛名神社も今でこそ「榛名」ですが初期においては氷川、鷲宮であったという「痕跡」だと思うのです。

 

当然ですが祭神としてナガスネヒコ、兄多毛比を祀っているわけではなく、祭神は埴安姫、豊受(伊勢外宮様)となっています。

催事の中に茅の輪くぐりも見えますのでスサノオも関連していた神社だと推定できます。

 

当地周辺が海だったころ、船で榛名大神が従者鷺森と弁財天とともに当地へやってきた、というお船山伝説。

 

稲荷神社(宇加御魂)、厳島神社(イチキシマ姫)、富士神社(コノハナサクヤ姫)、藤塚神社(稚産霊)、大六天神社(オオナムチ)、疱瘡神社(大禍津日)

この掲示板には摂社・末社まで書かれているので助かります。

 

大井氷川神社と同じような狛犬デザインです。

その向こうが拝殿正面

 

 

分かりにくいですが藤原の下がり藤神紋

 

 

賽銭箱正面になぜか天岩屋戸エピソードのイラストが…

天照、手力男、天鈿女に関連することがあるのかな??

 

本殿を横から

この構造は氷川系だと思うんだけど、千木・鰹木はありません。

 

これは本殿を後ろから

 

屋根の神紋は豊玉彦と下り藤(藤原)

 

本殿正面

 

さて摂社・末社を見ていきます。

まずこちらは…

左は富士浅間、右は藤塚

 

次は…

 

赤いから稲荷かな?

 

並んでいる4つのお社は右から、疱瘡(天然痘撲滅祈願)、大六天(後世の仏教関連)、厳島(イチキシマ姫)、弁財天(もともとミズハノメ=神大市姫)でした。

 

拝殿、本殿の神紋でも見た通り、大幡主の上に藤原がかぶさって完結した、というのは確実のようです。

つまりいつの時代かは分かりませんが、奈良・平安期のどこかのタイミングで近畿大和政権がここに入ったと考えてよさそうです。

 

それ以前はどうかについては想像するしかないのですが、本殿廻りの囲い・大幡主の神紋から考えてスサノオを祀った氷川系がベースにあるといった印象を受けました。

しかも鳥居に天鳥船(=ナガスネヒコ)の彫刻がありました。ナガスネヒコはスサノオの息子なので、この榛名神社の初期の神はナガスネヒコ系のスサノオだったと考えます。

 

主祭神はというと埴山姫、豊受大神となっています。

豊受大神は伊勢外宮様で稲荷です。境内に別に稲荷があるのでダブりになっています。

つまりよくある稲荷とは取り扱いの異なる豊受大神が主祭神となっている、ということです。しかも稲荷はよくありますが、豊受大神という表記はあまりなく特別に主張しているように見えます。

つまりこの豊受大神が近畿大和朝廷がねじこんだ神様のように見えます。

 

ですので、ここの主祭神は、

群馬から下ってきた勢力のアイコン・埴山姫

近畿から入り込んできた勢力のアイコン・豊受大神

この2つの並立ということが見えてきます。

(しかも両方女神になっているのが、互いの勢力が配慮しあっているようで面白いです。もしどちらかが優勢なら、優勢な方の男神が入ると思いますので)

 

つまりは当初のスサノオ(氷川、鷲宮)を首座から引きずり下ろし、群馬・近畿勢力が入植したと言えると思いました。

群馬・近畿勢力は程よく同居したらしく、神社の体裁は群馬サイド(埴山姫)、神紋は藤原近畿サイドと分かち合っています。利権が一致したのでしょう。

 

スサノオが引きずり降ろされた理由もなんとなく想像できます。

砂川は柳瀬川と比べて舟運利権が弱いので、後発の埴山姫、藤原近畿に譲渡したのかな、と。

 

さて摂社・末社のほうですが、

稲荷神社(宇加御魂)、厳島神社(イチキシマ姫)、富士神社(コノハナサクヤ姫)、藤塚神社(稚産霊わかむすび)、大六天神社(オオナムチ)、疱瘡神社(大禍津日)となっていました。

 

このうち藤塚神社が不明です。

久留米地名研究会・古川清久氏は、稚産霊(わかむすび)はアカル姫(大幡主の娘、スサノオの妃、イチキシマ姫の母)である可能性を挙げておられます。

 

アカル姫はスサノオの妃、大幡主の娘ということからここにいても不思議はないです。

またアカル姫の娘・イチキシマ姫もここに祀られているので、自然かな、と。

 

まぁ、アカル姫本人がここにいたわけはなく、アカル姫を信奉する人々が関東開発に入ったということでしょう。

スサノオ系の人々が氷川神社群を築いたことは確かだと思われますので、そのスサノオの妃・アカル姫の関係者が関東に入っていても、まぁ考えられるのかなとは思います。

(スサノオのもう一人の妃・クシナダ姫と修羅場にならないかとヒヤヒヤ…)

 

いずれにしても、アカル姫は関東では非常に珍しいです。

 

 

※1東国三社の1つ・息栖神社に祀られている天鳥船(=ナガスネヒコ)の印として鳥の彫刻が方々に残されていると考えています。ナガスネヒコは神武に対して反乱起こし死亡し、ナガスネヒコの甥・武夷鳥(=兄多毛比えたけひ)が父・天菩日(=豊玉彦)の命により関東開発を行った痕跡が鷲宮(わしみや)神社です。

鷲宮神社は氷川神社に比べて数が圧倒的に少ないです。鷲宮神社も氷川神社も創始には兄多毛比が関わっているのに状況が違い過ぎてこれには理由があるはずだと思うのですがまだよく分かりません。

ご存知の方がいらっしゃったらお教え願いたいです。

 

※2有名な埼玉古墳群の立地は、古墳にありがちな高台ではなく荒川の作った沖積平野です。つまり埼玉古墳群が作られたころは、縄文海進によってつくられていた古荒川湾は随分干上がって古墳を築造できるほどになっていたと考えられます。

もし群馬から船でここ榛名神社までやってきて入植する(周りは海のようだった)としたら古墳時代までじゃないのかな、と想像したわけです。