遂にこのブログもとち狂ったかと思われたアナタ、ご心配なきやう…

 

「さ」って何?ということなのですが、それは以前レポートした狭山が池から派生したテーマなのです。

簡単に振り返りますと、

 

関東の埼玉県と東京都の県境にある狭山丘陵の西端

 

そこに狭山が池・狭山神社※1があります。その狭山神社には由緒書に記載されていない祭神・タクハタチヂ姫(機神社)がひっそりと祀られていました。それは余談としまして…

その狭山が池には大蛇を退治したという蛇喰衛門(じゃくいえもん)の伝承がありました。

 

さらに、現在狭山が池から流れ出している残堀川は、江戸末期までは狭山丘陵に水源がありました。江戸末期に狭山が池を排水し耕作地を得ようとして残堀川の水源を付け替えたのです。その結果、狭山が池は現在の小さいサイズとなりましたが、排水以前は現在の10倍の面積があったそうです。

その想定図が下図です。

半透明青の部分が、江戸末期に排水される前の狭山が池の想定(私説)です。

ですが排水前の狭山が池よりも、古代の狭山が池はもっと大きかったと想像しています。

その根拠は2つ。

 

1)上図の狭山が池周辺の地割をよく見てください。上図左下部分の地割と全く違います。

左下部分の地割は、武蔵野台地全体に刻まれた青梅を中心とする放射状の地割の一部です。※2

ですが狭山が池の北側部分はまったく地割が異なります。これはこの2つのエリアへの人間のかかわり方が異なっていることを暗示しています。

つまり左下エリアが人間によって開発された後でも、狭山が池周辺エリアは未開拓(池)のまま残されていて後世になって干拓されたため地割が異なっている、と想像しました。

 

2)江戸末期に排水されるよりもずっと以前、古代において排水がなされていたと思われる遺構(大溝)が発掘されています。

 

つまり江戸末期に耕作地を得ようと考えたのとまったく同じく、古代においても同様の目的のため排水がなされていたのです。

ということは古代の狭山が池は江戸末期よりも広大だった、それを地割から想像したのが下図です。

当然にも耕作地を得るために排水を行ったと思われます。

しかもそれだけの土木工事を行うのですから投資回収の点から高価な商品作物だと思われます。養蚕のための桑とか…

狭山神社境内にひっそりとたたずんでいた「機(はた)」神社、そこに祀られていたタク「ハタ」チヂ姫。

これらは古代において養蚕をここで行っていた状況証拠になるんじゃないかと思います。

 

さて話を戻しましょう。

排水に利用された残堀川は武蔵野台地を斜めに横断する唯一の川で多摩川へと落ちていて、かつては蛇掘川(じゃぼりがわ)と呼ばれていました。

ですがその流路は江戸期に変えられていて、古代においては上図点線(失われゆく風景)のように流れていました。

 

武蔵大國魂神社は、近畿奈良政権が関東へ進出する橋頭保として築いた象徴です。群馬※4との交易により莫大な富を得られる荒川と違い、多摩川は上流部には何もなく交易のしようがありません。※3

つまり彼らは至上命題として荒川流域利権に食い込みたかったのだと思います。(おそらくそれが武蔵国造の乱の背景だったんじゃないかと想像しています)

そのために彼らは武蔵大國魂神社からまっすぐ北へと伸びる官道を作っていますが、残念ながらそれは荒川に達していません。達していたら彼らは滅びなかったでしょう。

しかし陸路だけではなく、上図の残堀川を遡上すれば苦労なく狭山丘陵西端へとたどり着けます。これを利用しなかったらバカでしょう。

 

狭山丘陵の南・北麓には大山祇を祀る神社が確認できました。大山祇は大国主の父親で、大国主は百嶋神社考古学において武蔵大國魂神社の祭神とされています。

つまり武蔵大國魂神社の力が狭山丘陵に達している傍証だと考えることができます。

 

ではここで1つの疑問が浮上します。

武蔵大國魂神社(大山祇)の勢力は狭山丘陵を越えて北へと進出できたのか?

 

それを辿るためのキーワードとして選んだのが「さ」なのです。

なぜに「さ」なのか?

それは上図をご覧ください。武蔵大國魂神社から狭山が池に到達する旧残堀川を北上すると

蛇(じゃ)掘川

砂(さ、すな

蛇(じゃ)喰衛門

狭(さ)山が池

狭(さ)山神社

これらが1つのライン・蛇掘川=残堀川上に並んでいます。この「さ」が狭山が池でとどまってしまったのか、狭山丘陵を越えて荒川まで達することが出来たのか…

これは武蔵大國魂神社を中心とする多摩川沿岸武蔵国(荒川沿岸武蔵国(氷川)とは全く異なる勢力)の生命線を探ることになると考えています。

 

では、解説が長くなりましたので実地レポートは次回といたします。

 

 

※1同名の狭山神社がもう一か所、狭山丘陵の東の端にもありますので混同なきよう。

 

※2そんな地割になったのは、古代において青梅を中心とした川筋が無数に刻まれており、後に人間が道を作る際にその川筋に沿って道を作った方が経済的であるため結果として川筋と道筋が似てしまった、ということだと想像しました。

 

※3事実、数百年の後には武蔵大國魂神社を築いた国府の勢力は滅びてしまいます。

 

※4群馬は現代でこそド田舎といったイメージですが、北部に火山があり鉱物資源が豊富です。それに加え、碓氷峠という超重要な古代の交通ルートがあり、上野(かみつけの)と呼ばれた非常に力のある国だったのです。