柳瀬川、長かったなぁ…

余りに長すぎたのでまとめを作ることにしました。

 

柳瀬川流域の神社を取り上げたので当たり前ですが、川に沿って点々と神社が並んでいます。

実際には川沿いじゃない神社もありますが江戸期以降のものがほとんどだと思います。逆に言えば、弥生時代~古墳時代にかけて武蔵野台地に進出したコロニーはほぼ河川に沿って入り込んでいった、と言えるのではないでしょうか。

 

上図を見ると狭山丘陵南の麓に神社が集中しているように見えます。

私のレポートを思い出していただければわかりますが、狭山丘陵に至るまでの川沿いの神社は氷川系ばかりです。狭山丘陵北側もまぁそんな傾向あります。

ですが、狭山丘陵南側は祭神がバリエーション豊かで、氷川が支配しているようには見えません。

これは何を意味しているのでしょうか?

 

想像するしかないのですが、氷川族は荒川沿岸はもとより柳瀬川流域の通運だけを支配していたのではないでしょうか。

柳瀬川を上下する運輸に対して課税していたのでしょう。

誰に対して課税していたのでしょうか?

それはもう、この狭山丘陵南麓に入植したコロニーが商品作物を荒川流域へ出荷する際に運搬費用・通行税として科していたのでしょう。

 

狭山丘陵は地図をご覧のとおりですが、真ん中に東西に延びた谷が刻まれています。現在では狭山湖・多摩湖となっていますが湖に沈む前には村が谷底に点在していたことが分かっています。谷間は防衛には便利ですが、耕作面積が小さくて生産には不向きです。

そもそも武蔵野台地全体が利水しずらく、逆に洪水が起こりやすく、地下資源もない不毛の雑木林だったので弥生時代の農耕・生産に向いていなかったのです。そんなところへなぜ入植したのか?

それは狭山池の回で申しましたが、現在よりももっと広大だった古代の狭山池を干拓することで洪水に襲われにくい安全な畑地を得て桑栽培により絹を生産できたため、と想像しました。

狭山丘陵の西のはずれが一番豊かな場所だったということです。

 

狭山丘陵南麓に比べて北麓に並んでいる神社は氷川系が多いです。

これは東川を遡ったとも言えますが、それだけではなく柳瀬川水系ではない不老川や砂川といった川を経由して荒川から侵入してきた氷川勢力だったんじゃないのかな?と想像しています。

 

これまで神社祭神や博物館資料をベースに、おそらく弥生時代~古墳時代に関東に進出したらしい(元)九州勢力の痕跡を追ってきました。

多摩川を遡上し武蔵大國魂神社や武蔵国府を建設した奈良政権が、なんとか武蔵野台地の北方へ進出しようと残堀川を遡りようやく狭山丘陵西端にたどり着いたらしいという痕跡が「さ」地名だった訳です。

 

そこまでして狭山池周辺で彼らは何をしていたか?

 

武蔵野台地は稲作に向いていないので、別の商品・絹を生産するため桑を栽培したんじゃないかと想像したのです。

そして生産した絹を残堀川を通じて武蔵国府へ卸していたのかもしれませんね。