さらに東川を西へさかのぼっています。今回の神社は…

 

■三ヶ島八幡神社・・・埼玉県所沢市三ケ島1丁目212

 

 

関東ど真ん中の大河・荒川へ注ぐ柳瀬川の支流・東川を西へ遡上して

 

狭山湖のすぐ北にあります。

 

これが鳥居なのですが、まずは周辺の風景をご覧ください。

 

これは神社から南を見た風景です。

2枚目の地図をご覧いただければわかりますが、狭山丘陵の中には2つの人造湖(狭山湖と多摩湖)があります。これは都心へ水を供給するために作られたもので、湖になっているところはかつて谷筋になっていて村が点在していました。

つまり狭山丘陵は背骨となる部分が尾根ではなく谷筋になっていて、古代において入植しやすい地形だったのです。

もちろん今は水の底になっていて確認できないのですが、上の写真で見ていただいているような地形が東西に延びていたのものと思われます。水田耕作は無理でしょうが、防衛するには有利だったと思われます。

 

さて神社を見ていきましょうか。

境内はこんな感じです。

 

拝殿。神紋は三つ巴で大幡主。

 

 

本殿は覆われていて見ることが出来ません。

 

う~~ん、見えない。

 

主祭神は誉田別。1623年に鎌倉・鶴岡八幡から分祀した、と。

湯殿神社(大山祇)、八雲神社(スサノオ)を祀っている、と。

後年、誉田別を取り入れながらも、ここは大幡主の開発した土地なんだぞ!という無言の主張をしていると感じました。

 

では拝殿左手のお社を見てみましょう。

 

右手が

 

八雲神社(スサノオ)でした。

所沢神明社でも見たとおり、スサノオとクシナダ姫を堂々と祀っていなくても何らかの格好でこうやってスサノオを祀っています。ですので氷川神社がベースにあることが分かります。

 

さらに左手には

 

こちらが湯殿神社=大山祇ですね。

大山祇と大幡主は異民族ですので血縁は繋がっていません。大幡主の妹・埴安姫が大山祇と婚姻することによって両者は友好関係となったと考えられます。

大山祇と埴安姫の間には大国主が生まれます。

大国主は武蔵野台地に奈良政権の出先機関である武蔵国府が進出するにあたって無難な象徴として担がれたアイコンです。そんな大国主の父親・大山祇がここに祀られているということは、初期においては氷川族の影響下で開拓されたここ三ヶ島村も時代が下って奈良時代以降はスサノオを末社に下ろし、大山祇を担ぎ上げたのでしょう。

ま、その大山祇も最終的には誉田別に置き換えられてしまいましたが…

 

遠く離れた近畿の政情が、こんな辺鄙で平和な武蔵野の片隅にまで影響を及ぼしていたのですな。