さらに進んでいきますよ。
今回の神社は豊鹿島神社。いかにも九州の香りが漂ってきますねぇ。
■豊鹿島神社・・・東京都東大和市芋窪1丁目2067
引き続き空堀川を西へさかのぼり
豊鹿島神社は参道が空堀川に直結している点からも舟運を重視する立地だったと考えます。
豊鹿島神社へ向かう前に、裏手(北側)にある古豊鹿島神社跡なる場所へ行ってみました。
ここは狭山丘陵南から登ってきた分水嶺の地点で、ここから北へはわずかに下って多摩湖になります。
かつては祠があったのかもしれませんが、今は柴刺があるのみ。
ここから少し南に下ったところには…
縄文遺跡があります。
縄文遺跡は武蔵野台地に点々と存在します。そのほとんどが消え去るのが弥生時代です。それは、稲作が出来ないと大陸からやってきた中国人に支配された列島の交易経済の中で滅びるしかないからです。
この鹿島台遺跡が縄文の終焉とともに捨て去られたのか、それとも別の形でこの近辺に生き延びたのか?
さて、狭山丘陵を降りて麓から豊鹿島神社へと入っていきます。
現在の社殿は16世紀に建てられたもの、と。
神紋は三つ巴で大幡主
境内に入ります。
傍の石板に
「天智の第四姫と蘇我(倉)山田石川麻呂によって建てられた」と。
蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を宮中にて暗殺する際にチョロッと協力したとされる600年代前半の人物で、最終的には蘇我氏内部の争い(実は藤原の策謀?)で粛清されています。
天智の第四姫とは、阿閇(あへ)皇女(=元明天皇)。この人は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)と天智の間に生まれた第四皇女ですので、蘇我倉山田石川麻呂の孫に当たります。
阿閇皇女は600年代後半~700年代前半の激動と策謀の時代を生き抜いた傑物と言っていいでしょう。
婚姻相手の草壁皇子は即位目前にして死亡、子の文武天皇が即位し阿閇は皇太妃となり権力を握ったと思われます。文武天皇が亡くなった後は自身が元明天皇として即位。710年、藤原京から平城京への遷都に際して藤原京に祖父・蘇我倉山田石川麻呂を責任者として残し、平城京において藤原不比等が最高権力を握った。
一族支配を強めつつ715年に娘(元正天皇)に皇位を譲り、もう一人の娘の婿・長屋王を重用し721年没する。
(しかしご存知の通り、藤原は阿閇皇女の孫・首(おびと)皇子(後の聖武天皇)と姻戚関係を結び取り込みに成功。さらには長屋王の一族を粛清し藤原一極支配が完成します)
上記の情報源はWikipediaで百嶋神社考古学とは異なる通説を表しているため一概に採用できませんが、阿閇皇女の一生は藤原族との熾烈な戦いで終始したことが分かります。※1
ここ豊鹿島神社の「鹿島」とは藤原の祖神ですので、一時はきわどいバランスの中で権力を握った阿閇皇女の係累がここに入植したが、阿閇皇女が亡くなった後には藤原の時代が到来し鹿島の名と武御雷信仰が上塗りされた、と見ることが出来ます。
では、ここの神社の源泉たる祭神は「阿閇皇女、蘇我倉山田石川麻呂」なのでしょうか?
森の奥に
稲荷でした。
本殿は鹿島様と呼ばれていたそうですが、それがいつからの話なのかは不明です。
豊「鹿島」であるので祭神は武御雷(藤原氏の祖神)で順当です。
上にも書きました天智の第四姫(阿閇皇女)と蘇我倉山田石川麻呂が列記されていますが、決して祭神であるとは書かれていません。つまりは、この二人はないがしろにできない存在だけど決してこの神社の中心には立たせないぞ!ということだと思います。
境内末社は日吉神社、産泰社(安産祈願かな?)、稲荷(上で見ました)、愛宕神社、白山神社、となっています。本殿の後にみていきます。
拝殿
大幡主の神紋がデカデカと出ています。武御雷と大幡主は協力関係(大幡主が目上)なので神紋は順当です。
さて、こちらは境内の末社です。
瀧澤明神社、祭神は不明です。
白山神社になんでイザナギやねん、白山姫やろ!? わけわからん~
イヤイヤ、そんなことある訳がないです!
これは例の半島由来の神様を表に出してはイカン!!という奴ではないでしょうか。
つまり元寇以降「半島由来の神様なんか祀るなやっ!!」という空気になって白山姫を隠すようになったという話です。
ですのでここの神様は正しくは白山姫(=天御中主=キクリ姫)だと思います。
こちらは愛宕神社、祭神は火産霊命(=金山彦)で順当です。
火産霊という表記にしてやっと表に出せる金山彦は殷氏の直系です。
さらに一段高い場所に…
石碑には
写真を明るくしました。
右から順に
中社 天八意思兼
奥社 天手力雄
宝光社 天表春
九頭竜大神
とあります。九頭竜神社をGoogleMapで探してみますと…
関東圏にまばらに分布しています。
九頭竜神社の中心はこの地図の左上、戸隠神社ですので公式サイトで軽く調べてみます。赤字
元々地主神として九頭龍大神を祀っていたが、天手力雄命を迎え入れた。奥社・御祭神は天手力雄命、中社は天八意思兼命、火之御子社は天鈿女命、宝光社は中社祭神の御子神の天表春命。
九頭龍大神は詳細が一切不明の神様。
奥社・天手力雄命=スサノオ
中社・天八意思兼命=豊玉彦
火之御子社・天鈿女命=伊勢外宮、辛国息長大姫
宝光社・天表春命=?
百嶋神社考古学においては以上のように解釈します。
九頭竜大神信仰の上に天手力雄命(スサノオ)がかぶさった格好になっていますので、天手力雄命(スサノオ)の方が後ということになりそれが関東圏にまで浸透しています。九頭竜大神もスサノオも古い信仰ですが、これが関東に入り込んだのが古い時代なのか、後世に入り込んだのかは判断不能です。
上の石碑も文字が読みやすい新しい時代の製作と思われますが、信仰自体が古いのか新しいのか判別不能です。
御嶽神社は一般的には大己貴命、少彦名命、国常立尊(=天御中主=白山姫)とされています。
もう一つ石碑が
右から順に
猿田彦
八海山堤頭頼神王
大元祖神
御嶽山座王大権現 少名彦 オオナムチ 不動尊
国常立
御笠山刀利天
とあります。
配置からして一番重要なのは中央の御嶽山座王大権現=少名彦、オオナムチ、不動尊という表記なので、これは上の写真の御嶽神社と考えられます。
八海山と御笠山については不明です。
上の御嶽神社とダブりなのかな??
産泰社、祭神はコノハナサクヤ姫
こちらは…
稲荷でした。
こちらは…
日吉神社、祭神はオオナムチ。
不明な神様が多くて分析しても意味あるのか?と思いつつも…
赤□は現在の主祭神
黄色□は本殿そばの末社
緑□は一段高くなったところにあった神様
青□は阿閇皇女へつながると思われる流れ
です。
青□を除いて列島大開拓時代のメインキャラといった感じで自然に収まっています。
いつも感じるのですが、大幡主系とスサノオ系は列島開発レースのライバルのようで、様々な場所で競っているように感じられます。ですがスサノオ系はどうしても1枚落ちる感じがします。ナガスネヒコの乱が響いているのでしょうねぇ。
ですが鷲宮神社でもレポートしたようにスサノオ系の武夷鳥(=兄多毛比)が関東開発に頑張っていたりします。
さて系図から想像しますに、列島開拓期(2世紀ごろ)に荒川流域から柳瀬川を遡上しここ豊鹿島神社でコロニーを建設した人々は不明ですが、大きくは大幡主の利権の従いつつここで生きていたのでしょう。スサノオがはいっているので氷川族の影響下にもあったのかもしれません。
時代は下って奈良政権のころ、阿閇皇女がここに関わってくる経緯も不明ですが、かつては蘇我氏の荘園だったのでしょう。それが、阿閇皇女の死により一気に蘇我氏が藤原に呑み込まれることでここ豊鹿島神社のあるコロニーも藤原に接収されたのではないでしょうか。
ただ、ここは近畿から遠く離れていることもあり、阿閇皇女と蘇我倉山田石川麻呂の名前は残ったのでしょう。
そんな奈良の政変も、近畿政権の力が関東に及ばなくなり荘園支配が自然消滅し、関東一円が武家のステージになってゆく時代の中で意味を失ったのですねぇ。
ここを支配した中世武士団にとっては鹿島という武の神様にちなんだ豊鹿島神社はいいアイコンだったのでしょう。
※1阿閇皇女は、祖父・蘇我倉山田石川麻呂が藤原の策謀によって死に追いやられたと知って、藤原と対決する道を選んだんじゃないのかな?
古事記・日本書紀は藤原歴史観(藤原による捏造歴史)ですので、乙巳の変の際に蘇我倉山田石川麻呂がガタガタ震えてしまったなどと貶めるような記述をしているのは、蘇我倉山田石川麻呂の孫である阿閇皇女と藤原一門との激しい対立が現実にあったためじゃないのかな?
蘇我倉山田石川麻呂と長屋王(阿閇皇女の娘婿)の死にざまが、軍勢で包囲した上で一族総自決を強要するという記紀の表現が「藤原に逆らったやつはこうなるんぢゃっ!!」という見せしめとして共通しているように感じますね。
阿閇皇女の和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫天皇=やまと「ねこ」あまつみしろとよくになりひめすめらみこと。
「ねこ」のつく歴代天皇は
孝霊:大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)
孝元:大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)
開化:稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)
でいずれも九州王朝正統皇統です。
もしかしたら阿閇皇女には「自分は正統姫氏の後継者だから藤原ごときには負けられんっ!!」という自負があったのかもしれませんね。