今回はある日本人について紹介したいと思います!

その人は明治時代の人で、ある人物の思想に感銘をうけ、歴史的な大事業にたずさわったただ一人の日本人です!

はてさて、どんな人なのか…
まずは写真から↓↓↓


史跡巡りサークルー旅イロー
この人の名前は青山士(あおやまあきら)さんで、彼は1878年に生まれ、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業されたエリート様です。

彼が大学生時代の時にみんな知ってる内村鑑三さんの思想に感銘を受けました。それが「私利私欲のためではなく広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない」という思想です。そして、青山さんは大学卒業後、いつかパナマ運河の工事にたずさわれることを夢見て、単身でアメリカに飛びました。

彼はアメリカに行き、パナマ運河の工事にたずさわることになったのですが、最初はお給料も雀の涙ぐらいしかなく、また一部の人からは日本からのスパイではないかと疑われていたそうです。それでも彼はパナマ運河の工事に参加し続け、最後の方には一部の建物の指揮を任されるまでになったそうです。

でも、第一次世界大戦が勃発するとアメリカ軍の上層部から「国としての大事な工事に日本人を携わらせていいものか」という意見が生まれ、青山さんはパナマ運河の完成を見ることなく日本に帰国しました。

青山さんは日本に帰国後、パナマ運河の工事に参加していた経験をいかして、ある川の工事に参加しました。その川の名前は荒川。江戸時代から明治にかれて100回以上も氾濫している河川で、この河川の工事の指揮を青山さんが担当しました。

荒川の工事は無事に終わり、ある碑が建てられました。その碑には、「工事を仕上げた多くの我らの仲間がいるがその人たちの苦しみをいつまでも忘れないために、荒川の工事に加わった者たちによって」と刻まれていて、青山さんの名前は刻まれていない。これは、青山さんの思想から青山さんの名前が刻まれなかったらしい。

また、青山さんはこんな言葉も残しています。「人類のため、国のため」荒川の工事はまさに青山さんの言葉通りの土木工事だったように思われます。

私が青山さんを知るきっかけになったのが神戸新聞で青山さんを紹介している記事でした。私はこの記事を読んで、たった数十年で強国であるアメリカの大事業にたずさわれるまでに技術を身につけた青山さんがすごいと感じました。皆さんは青山さんのことを知って、どう感じましたか?

お腹が空いた時も、空いてない時も、食べたくなるのが甘いケーキ!

甘党人類の味方ですよね


そんな愛されケーキの歴史は古く、人類最初のケーキはスイス湖畔の新石器時代の村落遺跡で発見されたものとされています*


穀物をつぶし、水分で固め、平らな円盤状にし、焚火の灰に埋めた石の上で焼かれたケーキ…

そう、人類最初のケーキはそんなにケーキっぽくないのです!

どちらかというとビスケットやクラッカーの先祖とされ、少なくとも現代版のケーキとは似てないです


古代ギリシャ、ローマの文献にもケーキという訳語をあてはめる食べ物は多くの文献に登場するそうです

ですがケーキの定義は広く、原料によって無数のバリエーションがあります

その多くは宗教儀式で用いられ、神々への供え物とされていたようです*

もちろん富裕層が楽しむお菓子としてもケーキは作られていたようで、食材の豊かさがうかがえますね


平たいかたいケーキは中世になっても好まれ、イギリスではジンジャーブレッドといったお菓子に発展しました

パン粉に蜂蜜を混ぜ、ジンジャーやシナモンといった香辛料を加えたケーキで

当時、とても高価だった香辛料を使ったジンジャーブレッドは高級なお菓子でした

しかし、このジンジャーブレッドはやがて衰退してしまって、ケーキの直接の先祖であるパンにとって代わられてしまいます!


当時のパンとケーキの境界線はとっても曖昧で、クリームやバター、卵を少し多めに加えて豪華にしたパンがケーキと呼ばれていたようです*

驚くことに、当時のケーキは、芝居やサーカス、売春と同立の贅沢品とされ、清教徒が取り締まりの対象とした娯楽の一種でした!

この時代にもし私が生きていたら、こっそり食べてしまっていた自信があります(笑)

ケーキを食べて良いのは、お葬式、クリスマス、聖金曜日(復活祭の前の金曜日)だけでした

限定された行事で食べるケーキの特別感がありますね


現代のケーキの誕生には、17世紀から18世紀といった長い年月が必要でした

泡立てた卵白で作るメレンゲ、円柱状の型、発達したオーブン、そしてベーキングパウダーといった化学膨張剤の登場によって、現代のふわふわ食感ケーキは誕生しました!

美味しいケーキをありがとう!(笑)


ところで、現代でもメレンゲを作る時、卵白を泡立てるのは骨が折れる作業ですよね

フォークすら開発されていなかった当時は本当に大変な重労働の工程だったようで筋骨隆々のコックが風刺画に描かれていたりします(笑)


参考文献*『ケーキの歴史物語』

著;ニコラ・ハンブル 訳;堤理華 原書房


メルハバ!(こんにちは!)
今日もトルコ大好きなおはらめです。°-°


今日はトルコのすごい女の人の話。
その人の名前は…


\\ ヒュッレム //

史跡巡りサークルー旅イロー


画像は
http://dramatic-history.com/lady/roxelana/rossa.htm
より


まあキレイなひと!ですよね?
でもこの人のすごいところは、
ずばり!野心です!


ヒュッレムは13~20世紀に現在のトルコな存在した『オスマン帝国 』という国家の10代目の皇帝(スルタン)の王妃様。
私たちが想像もつかないほど豪華絢爛な生活を送っていた女性なのです。


しかーし!
オスマン宮廷の女の頂点にたったヒュッレム、実は奴隷の少女だったのです!!
そんなんあり!?


ヒュッレムの本名はアレクサンドラといって、生まれはロシアのほうだと言われています。

貧しい村娘だった彼女は10代前半のときに盗賊にさらわれ、奴隷として売られてしまいます。

そんなどん底な彼女がラッキーだったのは彼女を買った人が当時のスルタン(スレイマン大帝)の右腕だったこと!

ついでに彼女自身の頭のよさもあって彼女はスルタンの後宮であるハレムにあがるのです。


ハレムというところは日本でいうと大奥みたいなもの。

しかも身分は重要視されず、王の寵愛によって誰でものしあがれるチャンスがある場所でした。

もちろん女同士のどろどろもトップクラス!
絶対行きたくないネ!°-°


そこでヒュッレムがどうのしあがっていったのか!
それは次回のお楽しみに!°-°