こんにちは。うらさです。
前回に続き「本能寺」について紹介します。

「本応寺」から「本能寺」に改名した後、1536年の天文法華の乱で延暦寺の僧兵により、伽藍はことごとく焼失しました。
織田信長は、当時の貫主である日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていましたが、
1582年、「本能寺の変」が起き、その際、再び伽藍を焼失しました。
その後豊臣秀吉によって再建されますが、これも1788年の天明の大火、1864年の禁門の変により二度も伽藍を焼失しました。

「本能寺」の「能」はつくりが「去」になっている俗字が使われています。
これは本能寺が何度も焼き討ちにあっているので、「ヒ(火)」が「去る」という意味で字をあえて変えていると言われています。
この字は当時よく使われていたので偶然かもしれませんが、とても面白いですね!

こんにちは。うらさです。 今回は先日立ち寄った本能寺について紹介しようと思います。 本能寺は京都府京都市中京区にある日蓮宗の寺院です。 戦国大名であるあの織田信長が暗殺された「本能寺の変」でとても有名ですね。 当初は「本応寺」という名前で、1415年京都油小路高辻と五条坊門の間に日隆によって創建されました。 しかし法華経の解釈による対立によって本応寺は破却され、日隆は河内・尼崎に移りました。 1433年に如意王丸という人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、 寺の名前を「本能寺」と改めました。 次回に続きます。



どうも!なるかわです。

 

先日、方広寺へ行ってきました。

 

 

 

方広寺と言えば有名なのがこの鐘!

 



 

 

 

鐘には何やら沢山の文字が刻まれていますが、2箇所だけ白線で囲ってあります。

 



 

ここには「君臣豊楽」と「国家安康」と刻まれています。

 

1619年、徳川家康はこの鐘の「君臣豊楽」「国家安康」の句が徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主としているものだと鐘を作った豊臣秀頼に文句をつけ、結果として大坂の陣へと繋がることになりました。

 

 

 

現在は残っていませんが、かつて方広寺には大仏がありました。

 

16世紀の終わり、豊臣秀吉によって大仏が作られましたが、1596年に発生した大地震によって大仏は開眼供養の前に倒壊してしまいました。秀吉の子、秀頼は父の遺志を継ぎ大仏作りに着手しますが1602年、製作中に火災で焼失してしまいます。それでも秀頼は大仏作りをあきらめず、1610年ついに大仏と大仏殿(現豊国神社付近)が完成します。しかし1798年に落雷によって炎上、大仏は姿を消しました。天保年間に尾張の有志らによって上半身だけの大仏が再興されましたが、これも1973年の火災で焼失してしまったそうです。意外と最近まで大仏が残っていたようで驚きました!

 



 

大仏は姿を消しましたが、「京都大仏前郵便局」や「大仏前交番」などのように、周辺施設の名前には「大仏」の名が残っており、かつて大仏があったことを今に伝えています。