お蔭参り(抜け参り)

 =抜け参りの普及+身分社会から解放されたい欲求+伊勢信仰

詳1(由来など)

→・伊勢参りに行く人が急激に増えたこと。

・中世以来の仏教の巡礼(お寺たくさん廻ったりすること ex.六十六部納経や三十三か所巡礼)の伝統から生まれる

   ・「お蔭でさ、するりとな、抜けたとさ」と唱和しながら参宮した為こう呼ばれたとか

    (お蔭→お蔭参り 抜けた→抜け参り的な)(またお蔭には恩恵という意味もある)

    ・ついでに奈良・大坂・京都や西国(金毘羅←詳しくはきょんの記事)にも。

詳2(いつから活発になったのか)

①織田信長の関所撤廃 

②豊臣秀吉、徳川家康の天下統一 で、参宮の状況が著しく好転!!

   (たぶん①人や物の行き来が活発に。と②乱世が終了した。から?

については交通の整備などもありそうなんでみつかったら当日に配布します。)

   ③御師の活発な道者獲得努力ex.

   ④街道や宿場の整備、貨幣経済の発展から江戸時代では年中盛んに!!

⇒平和になってちょっと便利に余裕もできたら娯楽が欲しくなったらしい

詳3(参宮するための工夫)

  →:山村や都市の同業者集団が組んだ組織から、聖地巡礼や寺社参詣の組織まで多様化した組織をさす。(今回は伊勢講

     掛銭(かけせん:積立金みたいな感じ)を集め、代表者が参宮した。

     遠隔地の参宮者に多かった。

     but→貧しい下賤の人々は抜け参り(親兄弟・夫・雇い主の許可なしで参宮すること)すること

⇒爆発的な集団参詣(特に「おかげ年」:①60年周期説。②伊勢遷宮のあった翌年。とくに恩恵を授かるとされて、参詣者が多かった。

But→これが特に信じられていたのは1830年ころ

⇒民衆のお蔭踊(乱舞を伴う。中世以来の風流踊りの系譜をひくかも)

のエネルギーを支配者層は危険視した

詳4(特に参宮者の多かった3つのお蔭参り)

  →1705年(宝永2       日本→綱吉の時代 世界→プロイセン王国建国(1701

    ・本格的なお蔭参りの開始

・約370万人(当時日本の人口の約13%)が参宮

    ・京都→近畿一円→秋には遠国にも

    ・1689年の式年遷宮が最も新しい

・下人・下女といった路銭を持たないものが施行を受けて参宮

     死者の黄泉がえりや参宮を止めた雇い主が急病になるなどの神異から、

いっそう参宮が増える。             by『伊勢太神宮続神異記』

1771年(明和8年)   日本→杉田玄白が初めて解剖見た 世界→ボストン茶会事件(1773

・約200万人(当時日本の人口の約6%)が参宮

・山城(今の京都)の宇治から

1769年の式年遷宮が最も新しい

 ・街道沿いの物価が高騰した

 ・お蔭踊の盛行だけで参宮しないものもいた

 ・「お蔭躍すべからず、若これをなさば、発頭人を召捕、厳科に行べし」

   →領主命令を聞かないで住人は踊って対抗したらしい  in大和国俵本

1830年(天保1年)          日本→徳川斉昭の藩政改革 世界→七月革命

  ・427600人(当時の日本の人口の約26%)が参宮

  ・阿波(今の徳島県)から

  ・1829年の式年遷宮が一番新しい(おかげ年が最も噂されたのがこのころ)

・大坂京都あたりで物価上昇

詳5(ええじゃないかについて)

   ⇒ええじゃないか≠お蔭参り

     ・このころ(1867年)明治天皇が伊勢神宮を訪ねたのをきっかけに伊勢神宮の性質が変わっている

・明治政府が御師(ふつうはおし/伊勢だけおんし:参拝・宿泊などの世話をする人)を禁止にしたためお蔭参りへの熱は冷めている

     ・ええじゃないかは後からつけられた名前で、当時はおかげなどと呼ばれていた

     ・世直しを求める民衆運動という解釈が一般的

(他にも討幕派による陽動作戦だったとか仮説がいっぱい!)

     ・「ええじゃないか」って囃子言葉とともに政治状況がうたわれる(歌詞は卑猥)

     ・伊勢神宮のお札や仏像降ってきたりただのカオス

     ・民衆はブームに乗っかってただけだったらしい