1983年山小屋OL殺人事件
POUCHS♡ 2019 6 12 更新
犯人は逮捕され懲役13年を言い渡されました。
なぜ、このような事件が発生したのか、
また女性の一人旅で気を付けるべきことなど
まとめました。
山小屋OL殺人事件とは?
今から36年前の1983年(昭和58年)9月19日
水牆山(みずがきやま)の中腹にある
登山道の雑木林で東京都武蔵村山市在住の
OL今井忍さん(22歳)の
腐乱した遺体が発見されました。
今井忍さんは1983年(昭和58年)9月3日の早朝に
山梨県の北巨摩郡須玉町にある
奥秩父山系水牆山(みずがきやま)へ
1人で登山へ出かけました。
帰宅予定は翌日の1983年(昭和58年)9月4日と
家族には伝えていました。
しかし、今井忍さんは1983年(昭和58年)9月4日の
夕方になっても帰宅しなかったことから
家族が捜索願を提出しました。
被害届を受理した警察は当初、
事件性は低いと考えていて捜査を行いませんでした。
しかし、今井忍さんのご両親は
あきらめずに独自に捜しました。
水牆山(みずがきやま)にある山小屋から
宿泊名簿を入手しました。
そして、宿泊名簿に記載されていた
宿泊者達に今井忍さんの写真を見せて回りました。
ご両親の努力の甲斐があり、1人の登山者から
「女性の叫び声を聞いた」との
証言を得ることができました。
その証言をもとに山梨県警韮崎署は
事件性があると判断し捜索を行いました。
捜索の結果、今井忍さんは水牆山(みずがきやま)へ
登山に出発してから16日後の1983年(昭和58年)9月19日に
腐乱した遺体となって発見されました。
山梨県警韮崎署が捜査を進めるうちに
今井忍さんの遺体発見現場近くにある
富士見平小屋の管理人大柴勉(50歳)が
容疑者として浮上しました。
大柴勉は山梨県警韮崎署の捜査員による事情聴取の際、
落ち着きがなかったことや過去に宿泊者に性的暴行を
加えようとしたなどの情報により
1983年(昭和58年)9月23日、
大柴勉に任意同行を求めました。
当初、大柴勉は今井忍さんに会いに来た
男の存在を主張し、今井忍さんの殺害を
否定していました。
しかし、夕方になり
大柴勉は今井忍さんの殺害を認めました。
その後、大柴勉には懲役13年の刑が下されました。
山小屋OL殺人事件詳細
1人の若い女性が犠牲になった山小屋OL殺人事件は
いったいどのような場所で発生したのでしょうか。
また、事件が判明した経緯などみていきましょう。
・事件の起きた場所
山小屋OL殺人事件が発生した場所は
山梨県北巨摩郡須玉町にある
水牆山(みずがきやま)です。
水牆山(みずがきやま)は標高2、230mで
奥秩父の山域の主脈の1つです。
日本百名山の1つにもなっている山です。
水牆山(みずがきやま)はとても眺めがよく、
登山口から3時間ほど登ると金峰山や富士山、
大無間山や南アルプス連嶺がみえてきます。
また、中央アルプスや八ヶ岳、北アルプスは
白馬岳までまさに見ることができる
まさに絶景スポットです。
・被害者が1人で登山へ
山小屋OL殺人事件の被害者となった今井忍さんは
1983年(昭和58年)9月3日の早朝に
山梨県北巨摩郡須玉町にある水牆山(みずがきやま)へ
登山に向かいました。
今井忍さんは普段はOLとして勤務しているので
休日を利用して水牆山(みずがきやま)へ
登山を行ったのでしょう。
若い女性が1人で登山を楽しみ山小屋へ宿泊することは
珍しくありませんし、今井忍さんも登山を趣味として
いたのでしょう。
先ほどもありましたが水牆山(みずがきやま)は
登山口から3時間ほどで様々な山が見ることができる
絶景スポットですし女性が登山するには
ぴったりの条件です。
・家族からの捜索願
1983年(昭和58年)9月3日の早朝に
水牆山(みずがきやま)へ向かった今井忍さんは
家族には翌日の1983年(昭和58年)9月4日に
帰宅する予定であると伝えていました。
しかし、帰宅予定日の1983年(昭和58年)9月4日の
夜になっても今井忍さんが帰ってこないことを心配した
家族によって捜索願が提出されました。
当時は、今のようなポケベルや携帯電話などの
手軽に連絡を取ることができる手段が
ありませんでしたのでご家族としては当然の決断です。
・遺体発見
被害届を受けた山梨県警韮崎署は、
当初は自殺か遭難だと考え捜査を行いませんでした。
しかし、今井忍さんのご両親の努力の甲斐があり
重要な証言を得て捜索を開始しました。
山梨県警韮崎署の捜査員が捜索を行ったところ、
今井忍さんは登山に出発してから16日後の
1983年(昭和58年)9月19日に腐乱した遺体となって
発見されました。
せめて、ご両親から捜索願が提出された段階で
捜索していれば、今井忍さんのご遺体は
きれいなままでご両親の元へ帰ったかもしれません。
・事件の捜査
山梨県警韮崎署は、
ご両親からの被害届が提出された当初は、
自殺か遭難だとしてまともに取り合いませんでした。
初動捜査の杜撰さは否めませんが、
その後山小屋OL殺人事件はどのようにして
解決していったのでしょうか。
・当初は自殺か遭難とみられていた
山梨県警韮崎署は、ご両親から被害届が
提出された当初は、自殺か遭難だと考え
まともに取り合わず、
今井忍さんの捜索を行いませんでした。
しかし、今井忍さんのご両親はあきらめることなく、
自らの手で娘を捜そうと奮闘します。
今井忍さんが宿泊した山小屋の名簿を入手した
ご両親は名簿に記載があった宿泊者に
今井忍さんの写真を見せて回りました。
そのうちの1人の登山者から
「女性の叫び声を聞いた」との
証言を得ることができました。
今井忍さんのご両親はこの証言を
山梨県警韮崎署へ提出し、ようやく山梨県警韮崎署も
事件性があると判断し今井忍さんの捜索を開始しました。
・山小屋の管理人を事情聴取
今井忍さんのご両親から「女性の叫び声を聞いた」という
登山者の証言を得た山梨県警韮崎署は他殺と事故の
両方から捜査を開始しました。
今井忍さんの遺体発見現場近くにある
富士見平小屋の管理人である大柴勉に事情聴取しました。
大柴勉は、今井忍さんは1983年(昭和58年)9月3日の
16時頃に富士見平小屋に来たが、その後17時頃に
若い男性が今井忍さんを呼びにきて一緒に
出て行ったまま帰ってこなかったと証言しています。
・事件当日の宿泊名簿
大柴勉は事情聴取を受けている際、
大変落ち着きがありませんでした。
あまりの落ち着きのなさに山梨県警韮崎署の捜査員は、
大柴勉に対して不信感を抱きました。
大柴勉の落ち着きのなさに不信感を抱いた
山梨県警韮崎署の捜査員は、大柴勉に対して
大変厳しく事情聴取を行いました。
すると、今井忍さんが富士見平小屋にやってきた
1983年(昭和58年)9月3日のみ宿泊名簿を
つけていなかったことが判明しました。
捜査は大きく前進しました。
・登山者の証言
今井忍さんのご両親の懸命な捜索により
登山者からの「女性の叫び声を聞いた」との
証言を得ることができました。
この証言により山梨県警韮崎署は
事件性があると判断して捜索活動を行いました。
また、以前に富士見平小屋を利用した事がある
別の女性の登山者からは、大柴勉に性的暴行を
受けそうになったとの証言を得ることができました。
この女性の登山者の証言は大柴勉(50歳)に
任意同行を求める1つの判断材料になりました。
・大柴勉が犯行を認める
・今井忍さんが富士見平小屋にやってきた
1983年(昭和58年)9月3日のみ宿泊名簿を
つけていなかったこと
・別の女性の登山者による富士見平小屋を利用した際に、
管理人である大柴勉に性的暴行を受けそうに
なったとの証言
以上の2点から山梨県警韮崎署は
1983年(昭和58年)9月23日、大柴勉(50歳)に対して
容疑者として任意同行を求めました。
事情聴取を受けた当初は、
大柴勉は今井忍さんに会いに来た男性の存在を口にし、
容疑は否認していました。しかし、同日夕方に
容疑を認めました。
大柴勉の犯行詳細
大柴勉はなぜ今井忍さんを殺害したのでしょうか。
大柴勉が今井忍さんを殺害するに至った動機や
殺害方法など詳細をまとめました。
・殺害方法
今井忍さんの死因は窒息死でした。
1983年(昭和58年)9月3日に水牆山(みずがきやま)へ
登山に出かけた今井忍さんは水牆山(みずがきやま)の
中腹にある富士見平小屋へ宿泊していました。
大柴勉は、その日の夜お手洗いへ行くために外へ出た
今井忍さんに性的暴行を加えようと近づきました。
大柴勉は今井忍さんを傍らの草むらへ
連れ込もうとしますが抵抗にあいました。
大柴勉は必死に抵抗し、逃げようとする今井忍さんを
逃がさないようにとTシャツの襟をつかみました。
運悪くそこは斜面であったため今井忍さんの首は
きつく締められて、窒息し亡くなりました。
・死体遺棄
今井忍さんを殺害後、
大柴勉は遭難したと見せかけようと画策しました。
殺害現場から100mほど離れた場所へ
今井忍さんの遺体を遺棄しました。
その後、今井忍さんの持ち物は焼却しました。
大柴勉は今井忍さんが遭難したと見せかけようと
富士見平小屋から少しでも離れた場所へ今井忍さんの
遺体を遺棄したにもかかわらず、持ち物を全て
焼却するなど詰めの甘さを露呈しています。
このようなことから、突発的な犯行だとうかがえます。
大柴勉の犯行動機
大柴勉が今井忍さんを
殺害した動機はいったい何だったのでしょうか。
大柴勉は、過去にも富士見平小屋を利用した
女性の登山客に性的暴行を加えようとしています。
事件が発生した1983年(昭和58年)9月3日も大柴勉は、
夜にトイレへ行こうと外へ出た今井忍さんに
性的暴行をしようとしました。
しかし、今井忍さんが抵抗し逃げようとしたため
咄嗟にTシャツの襟もとを掴みました。運
悪く傾斜のある場所であったため今井忍さんの首が
きつく締まり窒息死という結果になりました。
当初、大柴勉は今井忍さんに
性的暴行を加えることだけが目的だっと推測されます。
性的暴行後、殺害することまで計画はしていなかったが、
今井忍さんが抵抗し逃げようとしたことで、
焦りの気持ちが出たのではないでしょうか。
逃げようとする今井忍さんのTシャツの襟もとを
咄嗟に掴んだとしても、窒息死するまでには
時間がかかります。
その間離すことなく襟元を掴んでいたということは、
大柴勉はこの時今井忍さんへの性的暴行が
発覚することを恐れて殺意が芽生えたのではないでしょうか。
甲府地方にあった悪習の噂
山小屋OL殺人事件が発生した当初、
水牆山(みずがきやま)付近の住民の間では、
甲府地方にあった悪しき風習が
復活したのではないかと噂されました。
その悪しき風習とは
どのようなものだったのでしょうか。
また、なぜ、そのように
噂されたのかなどまとめました。
・悪習復活の噂
山小屋OL殺人事件が発生した
水牆山(みずがきやま)がある甲府地方周辺では、
その昔旅人を襲って輪姦するという
なんとも恐ろしい悪しき風習がありました。
この旅人を襲って輪姦するという悪しき風習は
しだいになくなっていきました。
しかし、山小屋OL殺人事件が発生した当初、
登山へやっていた女性が行方不明になったとことで、
水牆山(みずがきやま)の付近の人々は
旅人を襲って輪姦するという悪しき風習が
復活したのではないかと噂するようになりました。
・旅娘輪姦
甲府地方周辺で行われていた旅人を襲って輪姦する
悪しき風習は、旅娘輪姦ともいわれています。
なぜこのような事が行われるようになったのか
詳細についてはわかっていませんが、昔甲府地方は
鉱山事業が盛んでそこで働くためにやってきた
労働者によっておこなわれたのではないかとの
説があります。
旅娘とあるように主に若い女性の旅人が狙われていました。
若い女性の旅人を見つけると連れ去り複数の男性で
性的暴行を加えていました。
このような旅娘輪姦と言われる悪しき風習は
昭和10年ころまで行われていたと言われています。
・旅娘輪姦の被害者
旅人輪姦の被害にあった若い女性は
その後どうなつのでしょうか。
性的暴行を受けた女性に対しての周りの目は今よりも
もっと厳しかった時代ですから、命からがら逃げだせても
両親の元へ帰るなどできなかったのでしょう、
温泉街などへ流れつき遊女となるか、男性たちに
さんざん性的暴行を受けたあと山の中へ放置されるかです。
また、男性たちによって性的暴行を加えられている最中に
亡くなってしまった女性は、人気のない山奥へ運ばれて
その死体を遺棄されていました。
・山小屋OL殺人事件との関連性
旅娘輪姦は昭和10年ころまで
行われていたと言われています。
そして、山小屋OL殺人事件が発生したのは
1983年(昭和58年)です。
約50年前に行われていた悪しき風習と
山小屋OL殺人事件が
関連付けて語られたのでしょうか。
山小屋OL殺人の被害者今井忍さん(22歳)の遺体が
発見されて場所が、旅娘輪姦の被害にあった若い女性の
死体が遺棄されていた場所と同じだったため、
旅人を襲って輪姦するという昔の悪しき風習が
復活したのではないかと言われました。
犯人の大柴勉について
山小屋OL殺人の犯人である大柴勉に関しては、
山小屋OL殺人が発生する前から
あまり良い噂はありませんでした。
大柴勉が富士見平小屋の管理人になった経緯や
大柴勉の人物像などみていきましょう。
・富士見平小屋の管理人
山小屋OL殺人の犯人である大柴勉は、
1977年(昭和52年)に麓の増富ラジウム温泉観光協会が
経営する富士見平小屋の管理人となりました。
山小屋には、食事の提供を受けたり宿泊ができる
有人小屋と登山者が非難するための無人小屋があります。
富士見平小屋は宿泊もできる小屋なので
管理を行う人は必要です。
そこで、大柴勉が管理人となりました。
山小屋の管理人になるには、山小屋経営のノウハウを
知っていないと難しいため通常はアルバイトなどで
働いていた人が管理人になることが多いです。
大柴勉(50歳)もアルバイトなどで長く
山小屋の経営に携わり山小屋経営のノウハウを
学んだのではないしょうか。
・大柴勉の人物像
大柴勉はいったいどのような人物だったのでしょうか。
山小屋OL殺人事件が発生した当時、大柴勉は
両親と妻、娘の5人家族でした。
山小屋の管理人という職業柄普段は
富士見平小屋に常駐していました。
冬などで登山者のいない閑散期のみ
家族の待つ自宅へ帰っていました。
無口でおとなしい性格ではありましたが、
ライフラインがまともに整備されていない山小屋で
管理人として働くくらいですから精神力は
強かったのではないでしょうか。
・大柴勉には以前から問題があった
大柴勉は無口でおとなしい性格であるとされていましたが、
その反面女性の登山客への対応には大変問題がありました。
山梨県警韮崎署が捜査を進める中で、
女性の登山者が過去に富士見平小屋に宿泊した際に、
大柴勉に性的暴行を受けそうになったとの証言があります。
また、別の女性の登山者が富士見平小屋に宿泊した際、
大柴勉に性的暴行を受けそうになり、富士見平小屋から
逃げだし別の小屋へ助けを求めたこともあります。
このように未遂に終わった人は証言できますが、
実際に性的暴行を受けた人は周りに言うことはできません。
大柴勉は山小屋OL殺人事件が発生する前から
女性の登山者への性的暴行を行っていたのではないかと
思われる行動をしています。
そのため、水牆山(みずがきやま)の付近の人たちは
女性の登山者に富士見平小屋には宿泊しない方がよいと
忠告したこともありました。
事件後の裁判
山小屋OL殺人事件の犯人である大柴勉の裁判は
どのように進んでいったのでしょうか。
裁判中の大柴勉の様子や裁判の動向、
判決内容などまとめました。
・甲府地裁の初公判
山小屋OL殺人事件の初公判は、甲府地方裁判所で
1983年(昭和53年)11月17日に行われました。
裁判がはじまり、起訴状が読み上げられました。
被告である大柴勉は罪状に関しては認めています。
この裁判の時、弁護側は死因に関しては
認めることも否定することもしませんでした。
大柴勉が今井忍さんへ性的暴行を行おうとしたことは
認めるが、今井忍さをん殺害したことに関しては、
不可抗力で殺意がなかったとして刑の軽減を
図ろうとしたのではないでしょうか。
・裁判での大柴勉の様子
裁判の冒頭に起訴状が読み上げられ、起訴状の内容に
間違いがないかと問われた被告である大柴勉は、
「間違いありません」と容疑を認めました。
しかし、起訴状が読み上げられている時から
被告である大柴勉はうなだれていました。
容疑を認める供述をした際も大柴勉の声は小さく裁判長に
「もっとはっきり大きな声で」と促されるほどでした。
今井忍さんを殺害してしまったことに対しての
反省の気持ちの表れなのか、それとも自分の犯行が
ばれてしまったことへの絶望なのでしょうか
大柴勉は裁判中終始うなだれた様子でした。
・裁判途中から犯行を否認
1983年(昭和53年)11月17日に行われた初公判では
容疑を認めた大柴勉と弁護団ですが、
裁判が進んでいく中で突然犯行を否認しました。
被告である大柴勉と弁護団は、
「男性3人組の犯行である」と主張し始めたのです。
事件発生当初、山梨県警韮崎署の捜査員による
事情聴取で被告である大柴勉は
「男性が今井忍さんに会いに来て、
そのまま今井忍さんは帰ってこなかった」と証言しています。
この時、大柴勉は「男性3人」とは証言していません。
いったいどこから3人の男性が出てきたのでしょうか。
もしかしたら、大柴勉と弁護団は昔甲府地方にあった
旅人を襲って輪姦する習慣を模倣した犯行だと
印象付けたかったのかもしれません。
しかし、この「男性3人組の犯行である」との
大柴勉と弁護団の主張が認められることは
ありませんでした。
【後編へと続く】