旅芸☆ナビ

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大道芸人バスカータンプの
旅と大道芸をテーマにした活動手記。

末広町・消えた駅前小路

二〇世紀ひみつ基地
2006-11-18
2022-05-03



▲末広町・昭和五十年代


▲末広町・昭和四十一年頃

秋田駅前商店街にかつて存在した
小路のひとつ、末広町で
まず思い浮かぶのが、
銀座街との角地にあった
「食堂まんぷく」
(通称・まんぷく食堂) の、
薄汚れたバラック風のたたずまい。
昭和四十一年頃の地図では
末広町に二軒の店舗を構えている。



朝から酒が飲める安くてうまい
「食堂まんぷく」の名物で、
いちばんの人気メニューだったのは、
年季の入った一人用アルミ鍋で
食べる「肉鍋」。



豚肉、豆腐、野菜などの他に、
汁のしみ込んだ焼麩が
入っているのが特徴。
県内の食堂では今もこの形式の
肉鍋を提供する店があるが、
この秋田流肉鍋は「まんぷく」が
元祖なのだろう。

昭和五十三年、駅前再開発で
取り壊されたあと、同地に
「イトーヨーカドー」秋田店を
核テナントとする
「秋田ショッピングセンター」が
完成すると地権者として入居、
地下1階でカレー&うどんの
コーナーを営業するが一旦廃業、
のちに子息が秋田駅前の
中通四丁目13-15に新店舗を建て
「まんぷく食堂」を復活させるが、
 平成十二年、惜しまれつつ閉店。
戦後の食料難の時代から、
約五十年のあいだ県民に
親しまれつづけた、秋田を代表する
駅前食堂の終焉であった。

「まんぷく」の筋向かいにあった
「春駒食堂」は、結婚式場
「イヤタカ会館」近くに移転して、
現在も営業中。
メニューには「肉鍋」もある。

 

 

 時は高度経済成長期の昭和30~40年代。

  物さえあれば何でも売れる、商売になる。

  流行は秋田市広小路に行けば何でも手に入る。

  そんな時代が秋田にありました。

  バブルが弾け、平成に入ってから秋田駅周辺や

  広小路周辺にあった閉鎖したテナントや空き地に

  高層マンションやビジネスホテルが乱立しました。

  給料日に通ったまんぷく食堂提供の肉鍋は労働者に

  とって最高の御馳走だった記憶があります。

  

  

【 永遠のヒーロー:01 】

 

 黄金バット



黄金バット』(おうごんバット)は、
昭和の初期の紙芝居のタイトルロールの主人公。
金色の骸骨の姿をし、漆黒のマントを身にまとう。

スーパーヒーローとアンチヒーローの
両面をもつ孤高の主人公であり、
一般的には死の象徴として忌避される
髑髏をモチーフにしたヒーローという
点で、その存在が斬新だった。

その後昭和40年代に漫画・映画・
テレビアニメ化された。
特有の「高笑い」と共に現れる、
金色のコウモリが特徴的である。

しばしば
「日本初のスーパーヒーロー」として紹介される。
また、「スーパーマン」よりも8年先立ち誕生した
世界最古のスーパーヒーローともされる。


概要

1930年(昭和5年)、
鈴木一郎原作で白骨面に黒マントの
怪盗・悪役が活躍する街頭紙芝居シリーズ
『黒バット』[注釈 1]が好評だった。
この『黒バット』の最終回では、
無敵で不死身の悪役である黒バットを
倒す正義の味方として黄金色の
「黄金バット」が主人公として突如、
登場した。

この黄金バットが子供たちに
大好評だったため、黄金バットを
主人公とした新作紙芝居を蟻友会の
後藤時蔵、高橋清三、田中次郎らが製作。
当時の驚異的な当たり演目となる。 
しかし、当時の零細な紙芝居業界に
著作権意識は存在しなかったため、
多種多様な黄金バットが勝手に作られた。 

さらに、当時はセリフは書かれておらず
口伝だったため、同じ紙芝居でも
演者によって内容に差異があるのが
普通だった。

なお、戦前の『黄金バット』の
紙芝居のほとんどは戦時下の混乱にあって
散逸、あるいは戦災により焼失したとされる。 
当時の紙芝居は貸し出し式だったため
倉庫にまとめて保管されており、
倉庫が火事に遭うと全て燃えてしまっていた。 
また、手書きで写し描きされていたので
製作数が少なく、人気作は損耗も激しかった。


歴史

・1930年(昭和5年)末期、
 紙芝居『黒バット』シリーズの
 最終回『黒バット・解決編』にて、
 無敵の怪人黒バットを退治する
 正義の味方として鮮烈なデビューを飾る。

・1931年(昭和6年)初頭、
 『黒バット』シリーズに替わり
 『黄金バット』シリーズが本格的に始動。
 日本全国で巻き起こる空前の
 紙芝居ブームの火付け役となる。

・1934年(昭和9年)までシリーズ化される。
 その人気の高さ故に多種多様な偽物
 「黄金バット」が粗製濫造される。

・1933年(昭和8年)日本パーロフォンより
 レコード紙芝居『黄金バット 怪タンク篇』
 が発売される。

・1945年(昭和20年)4月の東京大空襲により
 オリジナル版の大部分が焼失。

・1946年(昭和21年)11月20日に
 加太こうじによる絵本『黄金バット』が
 フレンド社より刊行。
 戦後初の黄金バットの紙媒体である。
 本作はGHQ指導によって変更された
 パーマネント髪の大仏顔の黄金バットが
 初めて登場する。

・1947年(昭和22年)から、
 永松健夫による絵物語作品の単行本が
 明々社(のちの少年画報社)より刊行。
 1948年(昭和23年)には明々社から
 雑誌『冒険活劇文庫』(少年画報)が
 創刊され、永松による絵物語が掲載された。

・1950年(昭和25年)ごろに
 鈴木一郎原作で加太こうじが
 脚本と絵を担当した
 『黄金バット ナゾー編』という
 ナチス・ドイツ残党と戦う内容の
 紙芝居が行われた。

・1950年(昭和25年)12月23日、
 東京映画配給(東映の前身)・
 新映画社製作による
 『黄金バット 摩天楼の怪人』公開。
 監督:志村敏夫、出演:川路竜子、
 美空ひばり、杉寛。

・1966年(昭和41年)12月21日に
 映画『黄金バット』が封切り公開。
 主演:千葉真一、監督:佐藤肇、
 製作:東映。
 モノクロの実写映画で、
 1967年から放送されたアニメ版との
 連動企画であり
 プロット・キャラクターデザイン・
 主題歌などを踏襲した
 パイロット版的な作品である。

・1967年(昭和42年)4月1日から
 1968年(昭和43年)3月23日まで、
 アニメ版がよみうりテレビ(YTV)の
 企画・制作により日本テレビ系列で
 毎週土曜日19時 - 19時30分に全52話が
 放映され、高視聴率を得た。
 この放送枠は元々
 『お笑い珍勇伝 頓馬天狗 → 
  崑ちゃんのとんま天狗』、
 『琴姫七変化』など
 「YTV制作、大塚製薬提供のドラマ枠」
 として定着していた。
 YTVとしてはテレビアニメ制作の
 初参入作品であり、日本テレビ系列では
 初の19時台のアニメである。
 この放送枠では本作品の後も
 『巨人の星』、『天才バカボン』などの
 大ヒット作を生んでいる。
 スポンサーは変わらず大塚製薬の1社提供。
 制作は広告代理店「第一企画」
 (現・ADKエモーションズ)の
 動画制作部門、「第一動画」と
 韓国のテレビ局「東洋放送」で、
 この体制下での第1作。
 同じスタッフ体制で手掛けた第2作目が
 フジテレビで放映された『妖怪人間ベム』で、
 キャラクターや演出が酷似している。
 原作者として永松、監修者として加太、
 双方の名前を冠しているが、
 実際の基本設定とストーリーは
 第一動画のスタッフによるものである。
 また、脚本の島内三秀は、
 のち桂千穂の名でロマンポルノの脚本、
 ポルノ小説の翻訳、大林宣彦監督作品の
 脚本などで活躍する。
 共同制作国の韓国の他、英語圏や
 スペイン語圏、イタリアなどに輸出され、
 韓国では後にパロディ映画
(ヨングと黄金バット(朝鮮語版))が
 製作された程の知名度があった他、
 ラテンアメリカ諸国では日本以上の
 人気があったとされる。

・1967年(昭和42年)7月21日、
 「オールカラーで! 東映まんがまつり」の
 上映作品の1本として、アニメ映画『黄金バット』
 公開(TVブローアップ版)。
 併映は『ひょっこりひょうたん島』(長編アニメ版)・
 魔法使いサリー』(第1作)・『キャプテンウルトラ』の
 3本。
 アニメ終了後も、主に日本テレビや
 テレビ東京で再放送、特に1986年10月2日から
 1987年9月24日にテレビ東京の毎週木曜18:00で
 再放送された際、再放送では珍しい番組宣伝CMが
 放送されたことがあった。
 ナレーションはマゾ役の内海賢二。

・2000年(平成12年)、郵政省発行の
 20世紀デザイン切手シリーズ第9集郵便切手の
 デザインの一つとして、黄金バットが採用された。

・2011年(平成23年)4月25日、
 アニメ版黄金バットがニコニコ動画内の
 チャンネル「フルアニMAX」にて
 毎週月曜日18:00に1話ずつ配信された。
 第1話は無料で、2話以降は配信日の
 1週間後に有料に切り替えられた。
 2012年4月16日に全話配信完了し、
 9月28日にフルアニMAX閉鎖に伴い
 全動画が視聴不可能になった。


キャラクター

・黄金バット

黄金バットは長い歴史を持ち、
そのため数多くの作品に登場している。 
戦前のものは、初期は欧風の三銃士のような
洋装に頭部が黄金の髑髏という
(後のアニメ版などとよく似た)
シンプルなデザインだった。
黄金丸というサーベルを操る他、
エーアソーラスという怪獣を使役する。
終戦直後は進駐軍によってチェックが入り、
くりんとしたパーマ髪の仏像のような顔の
ヒーローに改変され、後に少年雑誌に
連載された永松健夫による絵物語版では
帽子を被った長髪の黄金骸骨または
痩せこけた老人のような金色の顔という
風貌になった。 

その後微妙な変更を経て、
1966年の映画版で後のアニメなどで見られる
「大きな襟付きマントをひるがえして
 飛んで来る、顔が髑髏で筋骨逞しい
 金色の超人」という(最初期のそれとよく似た)
親しみやすいデザインとなった。

武器はシルバーバトン。 
絵物語では日本のどこかにある
山の髑髏岩の下で眠っていた正義の神、
1966年の映画版やその後のアニメや
マンガ版では古代アトランティスの
遺跡で眠っていた謎の超人で
黄金の蝙蝠とともに現れるという設定。

神出鬼没で、登場する度に決まって
「ウワハハハハハハハハ!」と
甲高い高笑いをするのが特徴。
その独特なスタイルは紙芝居、漫画、
実写映画、アニメなどに全て踏襲されている。

アニメ後期には暗闇バットという
濃い青色のライバルキャラクターも登場した。

上述の通り多種多様な派生作品が作られたため、
作品によっては悪役だったり正体が
女性だったりというものも存在する
(例:手塚治虫 『怪盗黄金バット』)


・ナゾー

宿敵ナゾーは四つ眼のミミズクの覆面に
左手が機械の鉤爪、下半身は円盤の中という
奇怪なデザイン。

初期には巨大ロボットであるブルタンクや
怪タンクに搭乗し(紙芝居版や絵物語版)、
後の作品ではどこにでも現れる
ドリル状の要塞ナゾータワーを根城とする
(1966年の映画版やアニメ版)。

絵物語では黄金バットに負け、
蛇王(じゃおう)という他のヒーローとの
戦いによって両足を失った後の黒バットが
正体であり、元ナチスの科学者
ドブロクスキー博士や妖婆モモンガのお熊、
女賊ハルピンお光らを従え宇宙的な悪事を働く
(目は2つ)。

アニメでは彼自身が元ナチスの科学者
エーリッヒ・ナゾー、マンガ版では
黄金バットと同世代の超古代人で、
生身の手の指が3本であるなど、
明らかに人間ではない。
1966年の映画版では「宇宙の支配者」を名乗る。

アニメ版ではことあるごとに
「ロ〜ンブロゾ〜」と叫ぶ。
またアニメでは4つの目の色が全て異なり、
さらに最終回では逃亡してしまい、
黄金バットとの最後の対決はなかった。
ナゾーの逃走直後に怪獣が現れ、しかも
ヤマトネタケルが、彼は怪獣だったのだろうか、
と言うなど、ナゾーの正体が微妙に
暗示されていた。

映画版やその後のアニメやマンガ版には
上述の部下たちは登場せず、代わりに
ドブスキー(1950年の映画)、
ケロイド、ピラニア、ジャッカル
(1966年の映画)、マゾ(アニメ及びマンガ版)
らを従えている。

戦前の紙芝居版での描写ははっきりしていないが
永松の回想によるとマゾー、ウイスキー元帥、
怪モダン、ハルピンお光などを配下に
していたようである。

アニメ版放送時の雑誌の紹介によると
年齢72歳、身長2メートル9センチ、
体重82キログラム。
目からは各種光線を出す。
かつての戦争で自分の部下に裏切られ
ダイナマイトで自殺しようとしたが
自分の開発した超能力により死ねず
生き延びたのだと言う。
戦後の紙芝居ではナチスの残党として
描かれている。


その他の登場キャラクター

・大木親子

紙芝居版(黒バットを含む)や
絵物語版(永松版)の主人公。


・マゾ

ナゾーの手下。
アニメ版などに登場する他、
永松の証言によると紙芝居版の頃から
登場していたようである。


・蛇王

紙芝居版の頃から登場する
もう一人の超人的人物。
絵物語版では更に活躍の場を広げ
黒バットは蛇王が倒したことになっている。


・ヤマトネ博士

1966年の実写映画版や
アニメ版に登場する天才科学者。


登場メカ

・怪タンク

戦前の紙芝居版から登場する、
ナゾー一味が搭乗する人型の巨大ロボット。
水陸空両用の万能なスーパーロボットで、
頭頂部のプロペラで飛行する。
1933年のレコード紙芝居
『黄金バット 怪タンク篇』では
目から殺人光線を発射し、
口からは毒ガスを吐く。
アニメ版にもゲーゲオルグという名称の
よく似た外見のロボットが登場する。


ナゾータワー

1966年の実写映画版以降の作品に登場する、
ナゾーの本拠地。ドリル状の移動要塞で
海底や宇宙空間などどこにでも現れる。
実写映画とアニメ版とではデザインが異なる。
マンガ版(少年キング版)では映画版寄りの造形。


スーパーカー

1966年の実写映画版が初出。
ヤマトネ博士らが搭乗する円盤型の飛行装置。
実写映画版ではスーパーカー2号として登場
(1号は不明)。


紙芝居版

上述の通り様々な派生作品があった。

元祖と言うべき作品は1930年から
1933年ごろにかけて永松健夫が
『黒バット』の続編として描いたものだが
後に永松が転職したため、加太こうじが
代わりに描くようになった。
現在上演されるものの大部分は加太版である。

永松版は多くが現存しないが
「バック・ロジャーズ(英語版)」に
代表される当時のアメリカのパルプ雑誌に
掲載されていたような空想科学もので、
前作から十数年後を舞台に身を改め
ナゾーを名乗るかつての黒バットと
その一味とそれに立ち向かう前作主人公の
正夫探偵やその息子マサルや黄金バットとの
戦いを描き、舞台を中国やアメリカ、
海底や地下に移しながら展開してゆく
壮大なものであったようである。

1945年(昭和20年)4月の東京大空襲により
永松版黄金バットの大部分を始めとした
多くの紙芝居を保管していた倉庫が炎上。
加太こうじらの眼前で倉庫は跡形も無く
焼失したという。

1995年に大空社から永松版の現存するものの
一部を収録した復刻版が『元祖黄金バット』
として発売された。


・黒バット

黄金バットの前作。
神出鬼没の怪盗黒バットとそれに立ち向かう
少年探偵の正夫との戦いを描く。 
大正時代にヒットしていた『ジゴマ』ものを
参考に制作したという。 
当時紙芝居と言えば紙人形を使った
「立ち絵」と呼ばれるもので題材も時代劇が
主流だったので凝った背景の平絵式の紙芝居で
現代が舞台の怪奇ものはもの珍しくヒットした。

現存するものは発見されていない。

 

 

 日本では戦前から紙芝居で演じられてきた

  名作「黄金バット」。

  本来、主人公がどくろの顔というというと

  怖がられて嫌われてしまうだろうが、

  冒険活劇として描かれたダークヒーロー

  黄金バットの活躍は当時の子供たちに

  圧倒的・熱狂的に受け入れられていた。

  自分も幼少期に紙芝居やテレビアニメで

  拝見した記憶がある。

 

  紙芝居は字が読めない子供にも

  わかりやすく読み聞かせができる様に

  絵を描いた物をまるで弁士の様な語り口調で

  子供たちを引き込んでいた。

  紙芝居は活劇物・悲恋物・当て物(クイズ)の

  三部作から成り立ち、もともと紙芝居は

  駄菓子売りが生業であり、お菓子を

  買ってくれたお客さんに披露されていた

  ものだったが、お金を持っていなかった

  貧しい子供たちにもそっと見せていた。

  戦後にテキヤ家業から独立して組合を作り、

  昭和の高度経済成長期突入と同時に

  映画やテレビの発達で廃れ、戦後の混乱期

  から数多くいた紙芝居の人たちも失業や

  転職、高齢化を理由に引退するなど、

  現在で大道芸人として演じている人が

  何人かいる程度となってしまった。

 

  実は1970年代に入って当時の毎日放送を

  キーステーションに放映された「仮面ライダー」

  のモデルになったと言われている。

  当初、原案を持ち込まれた漫画家の

  石ノ森章太郎氏が制作の東映プロデューサーからの

  依頼で、どくろのマスクを被ったヒーローを提案。

  社内会議で採用されなかったが、後に「スカルマン」

  というオリジナルキャラクターとなる。

  平成になってテレビで放映された「仮面ライダーW」

  では元になったスカルマンをモチーフにした

  キャラクターが登場している。

  

【日本居酒屋紀行】

関西の角打ちの名店といえばココ!  
大阪府大阪市淀川区の「イマナカ酒店


GOTRIP! 2026/03/15


どんな居酒屋にもそのお店に通う人々の
思いが重なり、そしてそのたくさんの
思いはそれぞれの居酒屋が醸しだす
独特の雰囲気となっていく。

それゆえ、日本各地に多く人々を
虜にする居酒屋がキラ星のごとく
数多存在しているのだ。

そんな全国にある美味しい居酒屋の中から、
今回は、大阪は十三に佇む最高の居酒屋を
ご紹介したい。

お店の名前は「イマナカ酒店」だ。

・創業1928年(昭和3年)頃の
 老舗酒場、それが「イマナカ酒店


こちらの居酒屋、
創業1928年(昭和3年)頃の老舗酒場。

1928年(昭和3年)と言えば、
日本でラジオ体操が始まり、
浜松高等工業学校の教授・高柳健次郎が
世界で初めてブラウン管を用いた
テレビ実験に成功したり、
25歳以上の男子に選挙権が与えられた
初の選挙が開催されるなど、
日本の現在に続く新しい時代を
予感させる種が生まれていった時代と
なった年。

そんな時代に生まれた角打ちの名店は、
今なお多くの人々に愛され続けているのだ。





・素晴らしい空間で味わう最高の酒と肴

こちらのお店、お店の中に入ると
素晴らしい空間が広がっている。

素晴らしいメニューの数々に、




このお店のさまざまなお客様を
見てきただろう調度品、
ただそれだけで、その全てが尊い。



それらの中から好みの肴を選んで、
好みの酒を味わう。角打ちの真髄が
ここにはあるのだ。





さまざまな美味しいメニューと
サワーやビール、日本酒やウイスキー、
リーズナブルになんでも味わえるのが、
イマナカ酒店の素晴らしさだ。




もしも大阪を訪れるのであれば、
昭和の時代から続く本当の酒場で、
素晴らしい時間と空間を
堪能してみてはいかがだろうか?

そこではきっと、他のどの場所でも
味わうことができない、
本物の角打ちを堪能できるに
違いないのだ。

<お店の情報>
お店 イマナカ酒店
住所 大阪府大阪市淀川区十三東2-6-11
営業時間
火曜日から土曜日・祝日 11:00 から 21:00
日曜日 11:00 から 20:00
定休日 月曜日

 

 

 お店で買ったお酒を店内のカウンターで

  立ち飲みする光景を目にする角打ち。

  店内にはお酒の肴になるつまみ類や缶詰、

  簡単なおばんざい(惣菜)を何品か

  提供するお店もあるが、酒王国、

  我が秋田では角打ちのお店も撃滅状態…。

  昭和のオジサンたちの光景が遠のいて行く…。

スケジュール

 大道芸人バスカータンプ

 週末の予定

 

 

 

日時 3月29日 日曜日

   11:00~16:00

 

場所 秋田市千秋公園中土橋通り

 

内容 手相・数字に関わる占い鑑定

 

 

今日は天気がいいので

  外出するには最適ですね。

  恋愛運・人間関係・進路・御相談承ります。

  お気軽にどうぞ。

今日の心理学

 

今すぐ別れたほうがいい
相手・特徴3選


ダイヤモンド社書籍編集部


「読んでいて涙が止まらなかった」
「まるで自分のことを書かれているみたい」

そんな声が数多く寄せられるのが
ベストセラーエッセイ
『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』
(クルベウ著/藤田麗子訳)だ。

がんばっているのに報われない恋。
苦しいのに「大丈夫」と言い聞かせて
続けてきた関係。

今回は、本書の中から、
「別れるべき相手の特徴」が
浮かび上がる一節を、紹介します。


特徴① 

一緒にいるほど、傷が増えていく

「誰かと付き合っていて、
 傷つくことが多いなら
 それは別れてもいいタイミングよ」

――『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』より

恋愛は、多少のすれ違いや我慢がつきもの。

でも、「傷つくことが多い」状態が
続いているなら要注意です。

好きだから耐える、愛しているから我慢する。

それは優しさではなく、

自分を削る選択かもしれません。


特徴② 

どんなに楽しいことをしても、

くつろげない

「居心地がよくなければ、
 どんなに素敵なことをしても幸せにはなれないの」

――『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』より

旅行に行っても、おいしいものを食べても、
なぜか気が休まらない。

それは相手との関係そのものが、
あなたを緊張させているサインです。

幸せは「何をするか」よりも、
「誰といるときに安心できるか」で決まります。



特徴③ 

あなたの傷より、

自分の正しさを優先する

「あなたを愛していないなら、
 あなたの心の傷に気づいても
 自分の論理だけを主張するでしょう」

――『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』より

本当に愛している人は、
傷つけていると知ったとき、立ち止まろうとします。

でも、別れるべき相手は違う。

「悪気はなかった」「それは君の受け取り方だ」と、
あなたの痛みをなかったことにするのです。

別れるかどうか迷ったとき、考えるべきなのは
「好きかどうか」だけではありません。

その人は、あなたを安心させているか。

それとも、一緒にいると傷つく相手なのか。

『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』は、
「自分を守る基準」を静かに示してくれます。

恋や愛に迷ったときに、
そっと手に取ってみてはいかがでしょうか。

(本稿は『大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをした』を

 元に作成しました)

 

 

 春は心機一転、

  新たな気持ちで出直す季節です。

  もしも、心の中にモヤモヤを

  感じさせる様な出来事があるのなら、

  一度、リセットして再出発を図りましょう。

昭和27年創業の老舗焼肉店で味わう
絶品の焼肉とは?
東京都台東区東上野の馬山館
 
(マサンカン)

GOTRIP! 2026/03/22


有史以来、人類を虜にしてきた肉。

噛み締めるたびに溢れる肉汁と
ほとばしるウマミは、悠久の歴史の中で
この世の生きとし生ける人間の全てを
虜にしてきた。

そんな肉の魅力を存分に味わえるお店は
日本各地に多数存在している。

今回はさまざまな日本各地にある
肉の美味しいお店の中から、
東京都台東区東上野にある
美味しい焼肉店をご紹介したい。

お店の名前は「馬山館 (マサンカン)」だ。

・1952年(昭和27年)創業の
  老舗焼肉店、それが「馬山館
(マサンカン)

こちらのお店、
1952年(昭和27年)創業の老舗焼肉店。

創業した1952年(昭和27年)といえば、
対日講和条約・日米安全保障条約が発効、
GHQが廃止され、東京国際空港(羽田)が
業務をスタート、第15回オリンピックが、
フィンランドのヘルシンキで開催され、
日本はこのオリンピックから戦後、
初めて参加することになるという、
日本が国際社会に徐々に復帰していく
契機となった年。

そんな年にこちらの焼肉店は産声をあげ、
今なお多くの人々に愛され続けているのだ。



・質実剛健、シンプルで
 うまい焼肉を味わう、それが
 「
馬山館 (マサンカン)」の流儀

こちらのお店では非常にシンプルな
メニューが提供されている。


ドリンクメニューも非常にシンプルである。



シンプルなメニューから味わいたい
メニューをシンプルに注文すれば、
素晴らしい焼肉タイムのスタートだ。


ナムルは1つずつ丁寧な
味付けが施されているし、



キムチも味わい深く、焼肉と一緒に
味わっても、そのままでも、美味しい。



馬刺しユッケも、タレと馬刺しとの
相性が抜群で、ご飯と一緒に味わっても、
酒の肴として味わっても、素晴らしい
組み合わせとなるだろう。



そして焼肉だ。

まずはこちらのお店でしか味わえないだろう、
お店自慢の塩ゲタを注文しておきたい。

塩ゲタとは骨の周りの肉を丁寧に
取り外したものだそうだ。
しっかりと焼き上げて味わえば、
素晴らしい食感と肉の旨みが溢れ出してくる。





他にもハラミ



赤身



レバーなど、
その全てが素晴らしい味わいである。



もし上野を訪れたのなら、
東京都台東区東上野に存在する
昭和の雰囲気たっぷりのエリアで
美味しい焼肉を味わってみては
いかがだろうか?

きっとそこには、
積み上げられてきた歴史に裏打ちされた、
素晴らしいおいしさがあるに違いないのだ。

<お店の情報>
お店 馬山館(マサンカン)
住所 東京都台東区東上野2-15-6
営業時間 火曜日から土曜日 

     11:30 – 14:30

     18:00 – 22:00
定休日  月曜日・日曜日
 

 

 下町で育った者としては

  上野は都内で最も昭和の雰囲気が

  残る場所として愛着がある。

なぜ「イタコ」は恐山にいるのか? 
待ち時間10時間、口寄せは10分…
絶滅寸前の巫女たちが抱える
“歪な需要と供給”のリアル


文春オンライン
道民の人 によるストーリー



イタコといえば
恐山」を連想する人は多いだろう。
しかし、本来イタコは青森県の
各地域に暮らす民間宗教者
(カウンセラー)であり、
恐山に常駐しているわけではない。

では、なぜ「イタコ恐山」という
イメージが全国に定着したのか。

ここでは、日本各地を旅し、
民俗学的痕跡をたどる
「道民の人」による
 『日本遠国紀行』 (笠間書院)の
一部を抜粋。昭和のオカルトブームや
バラエティ番組の無茶振りにも
応えてきた彼女たちの歴史と
「虚像のイタコ」の誕生秘話に迫る。




死者の魂を呼ぶイタコの「口寄せ」

イタコが死者の魂を降ろす技術……
口寄せとは、あの世にいる死者の魂を
この世に呼び、その言葉を喋る。

つまりは「霊媒」のような位置づけである。
伝統的なイタコは、師匠より教わった技法と
流れにのっとって、あの世から死者の魂を
呼び出し、そして最後は再びあの世へ
送り返す。

最初は神仏の力を借り、死者に対して
この世へ降りてくるように頼む内容の
経文が繰り返される。

そのうち死者の魂が憑依した
イタコの口から死者の言葉が伝えられ、
満足した死者の魂はあの世へ帰り、
イタコは神仏にまた祈り、口寄せは終わる。

一連の時間は短くても30~45分はあり、
長ければ1時間を超える。

ホトケの語りは一人称による一人語りで、
語られる内容は一定のパターンのもと
構成されていて、会話はほとんど
不可能である
(イタコやその時の死者の気分によっては
「訊きたいことがあれば言ってみなさい」
などと言って、質問や会話を
受け付けることもある)。

魂を呼ぶにも一定の条件がある。
基本的に「故人の命日」さえ分かれば
可能である
(後に登場する中村タケさんの場合は、
 故人の住所や名前を必要とする)。

ほかにも、亡くなったばかりの霊を
呼び出すことは躊躇われ、死後100日と
いった制約が設けられている。

また、客とまったく関わりのない人物を
呼び出すことは難しい。

当たり前ではあるが、本来のイタコの
口寄せで呼び出す必要がある人物は、
客の親類縁者や友人であったりするはずで、
外部の人間が考える「霊媒」とは
意味するところが違うのである。


イタコはいつでも
恐山にいるわけではない


80年代以降よく行われた、
オカルト否定派やバラエティー番組、
雑誌の取材による
「有名人や外国人の霊を呼び出せ」
という無理難題を押し付けられても
怒らずに対応した彼女たちは
実に懐が広いと私は思う。

イタコがホトケオロシを行うのは
季節行事や忌日法要、個人の
依頼によっていたが、特に青森県内の
有力な寺社や霊場の祭日に、
複数のイタコが参集して行われる
イタコマチ」という行事もあった。

この時に最も多くイタコが
やってくるのが下北半島の恐山であり、
ここにイタコと恐山は繫がる。
イタコとはこのように本来は各地域で
それぞれ暮らしており、いつでも
恐山にいるわけではないのだ。

恐山のイタコマチは夏、
秋の祭礼時に行われる。
1990年代以降でも、津軽は
川倉賽の河原地蔵尊、
上北郡おいらせ町の法運寺などで
こうしたイタコマチは行われていたが、
現在前者はイタコではなくカミサマ
(編集部注:青森県の津軽地方で
 信仰されている憑依巫女
 イタコが死者の霊を憑依させる
 死者の口寄せを行うのに対し、
 カミサマは神からのメッセージを
 伝えるために神を憑依させる)が
 1人で取り仕切り、
 後者は参加していたイタコが
 亡くなったことから、2010年代以降、
 祭礼の中止に追い込まれている。

イタコが恐山に登るようになった時期は
あまりはっきりとしていないが、
大正末から昭和初期と見られている。

1939年に中市謙三が著した
『恐山詣』によれば、
「初め一人だったのが今は五人位
 いるといふ」との記述があり、
つまりイタコが恐山にいて、
そこで死者を呼び出してもらう
風習の発生はそう古くはなく、
太平洋戦争期を前後にしての発生と
定着と考えられている。


戦没者遺族に求められ、
紀行作家の目に留まったイタコ


先の大戦がもたらした膨大な戦死者の数は、
死者の口寄せ需要を一気に大きくし、
イタコは戦後、際立った活躍をみせた。

当時はまだ新規でイタコとなる者が
多くいた時代で、中村タケ女
(編集部注:日本最後のイタコ)も
この時期にイタコとして独立した。

そして、イタコという風習に変化が
現れるのもこの時期だった。
戦後、大量にいた戦没者遺族の心に
イタコのホトケオロシは必要とされ、
青森県下の一般家庭や神社仏閣で
盛んに行われていた。

そんなおり、恐山の祭礼時に行われている
イタコの口寄せの姿が、当時文芸界で
流行していた旅物・秘境探訪などの
紀行作家の目に留まるのである。

もともと恐山は慈覚大師円仁が開いた
地蔵菩薩を中心にした霊場・寺院であり、
イタコの存在が必ず伴うものではなかった。

多くの山岳信仰や祖霊信仰に言えることだが、
恐山は「死んだ人の魂が登る先の山」という
考えが下地にあり、1950年頃までの記述を
見る限りは恐山そのものが死者の霊と会える
場所という表現がなされていて、
イタコの介在はない。

しかし、火山性ガスと荒涼とした岩場に
覆われた風景は「賽の河原」という
言葉にも現れるように、霊場としての
神秘性にあふれており、その傍らで
数珠を鳴らして死者の言葉を語るイタコの
奇怪な姿は、この秘境の地へたどり着いた
旅行者やメディアなどの「外部の目」に
初めて発見され、彼らの手で、
恐山の神秘性と宗教的景観の中の
一コマとして紹介された。

これがイタコ=恐山のイメージの
大本であると大道晴香などの研究者は
指摘している。


70年代からの
オカルトブームが作ったイタコ像


70年代中盤からのオカルトブームを迎えると、
イタコは死霊やあの世など超自然的な
世界や属性を伴う存在としても
見なされるようになる。

この時期のイタコに関連する作品や
記録を探すと、それまで多かった
ドキュメンタリーではなく、
ホラーや心霊ルポなどに登場し始めている。

やがて90年代に再び起こる心霊ブームで、
イタコは「恐山」「心霊」「口寄せ」
という属性やイメージが完全に
ステレオタイプ化し、今日日我々が持つ
「イタコ像」は完成していく。
この時期には『地獄先生ぬ~べ~』や
『シャーマンキング』『クレヨンしんちゃん』
など子供や青少年向け作品にも、
霊能力者として「イタコ」の存在が
よく登場するようになり、筆者も
この世代の人間であるため、
民俗学の世界に入るまで、
長らくイタコに対してステレオタイプな
イメージを強く持ち続けていた。
海を挟んで向こう側の、恐山と下北半島を
年がら年中見ている人間でも……だ。



全国から訪れた
「ホトケオロシ」を求める人々


イタコが人口に膾炙するに伴い、
恐山の大祭で口寄せに訪れる客の中には
地元の人間のみならず、観光客や外部からの
者も多くなった。

東北や北海道だけではない。
時には遠く関西、九州から訪れる者までいた。

80~90年代の記録では、
深夜から恐山の山門前に並び、早朝4時5時
(大祭中はいつもより早くしているという)の
開門と同時に百人を超える人々が、イタコが
待機しているテント小屋へ押し寄せたという。

みなホトケオロシを行ってもらうため、
必死になって全国各地から駆け付けた人々で、
イタコが夜7時の閉門時間までホトケオロシを
行い続ける光景が毎年恐山で見られた。

こうした莫大な数の客を捌くため、
口寄せは恐山においてはどんどん簡略化
されていった。

本来であれば1時間程度かかることもあった
口寄せも、早ければ10分程度、長くとも
20分程度になった。口寄せ中の言葉も
客のことを考えて標準語に近いものとなり、
恐山でのイタコのホトケオロシは
元の形とは大きく変容していった。

客は早朝に並べたとしても、
順番が回ってくるまで6~10時間以上
かかることも少なくなかった。
最悪、並んでも順番が回ってこないことも
ざらであったという。

そんな大変な苦労をして、
「よく呼んでくれた。
  久しぶりにお前たちに会えて
  話ができてうれしかった。
  わざわざオヤマ(恐山のこと)まで
  来てくれて本当にありがとう。
  いつもお前や家族を守っているから
  安心なさい」
などと、イタコの口を介した死者の言葉に
耳を傾ける遺族は涙を浮かべることも
しばしばであったという。

たった20分程度の時間、亡き者と話すために
遺族は恐山へ何日もかけて辿り着き、
何時間も並ぶのだ。


日本人の心の中に完成した

「虚像のイタコ」

当時のようなブームじみた風景は
かなり熱が冷めたようだが、
令和の今でもなお恐山の大祭では
これの規模を小さくしたような光景が見られる。

こうした世相と時代の変遷を経て、
イタコは「死霊を憑依させて死者の言葉を
語らせる神秘的で奇怪な能力を持つ老婆の
霊媒師、巫女」というイメージを得たのである。

1962年に恐山を訪れた作家、戸川幸夫は
恐山の青年僧侶からこのように言われたという。

「いずれはこんなことも消えていくでしょう。
  いまの信仰している人々が亡くなり、
  イタコなども消えていったらね。
  寺と信仰はまた別の形で
  存続しなければなりますまい」

だが、彼の言葉や予想を
その後の歴史は大きく超えてしまった。
イタコはもはや青森県だけの存在ではない。
いや、イメージとして作られた虚像のイタコは、
恐山を媒介にして日本人の心の中に完成し、
いまだに霊場・恐山を構成する霊威的存在として
生き続けている。

そして、死者の口寄せ以外の要素を
ほとんど漂白された虚像のイタコは、
おそらく今後人々の間で「実像のイタコ」
となるであろうことが予想される。

なぜなら、本来の実像のイタコは
ほぼ絶滅しかけの存在であり、
一方で死者の口寄せを頼む人々の需要は
今後も同じくして存在し続けるためである。
いや、正確に言えば、虚像のイタコは
既に本来の「イタコ」とは別の存在として
歩み始めている。


消えゆく「実像のイタコ」

実像のイタコとは、師匠から
技術を伝えられる盲目の巫女であった。

しかし、戦後の高度経済成長を経て、
日本の衛生状態や社会基盤は瞬く間に改善された。
失明する女性は少なくなり、たとえ光を失っても
福祉が充実した社会においてはイタコになる
必要性はなくなった。

1970年代頃からイタコの数は減る一方となり、
現在最年少の伝統的イタコは1972年生まれで、
しかも彼女は目に問題がない。

そうしているうちに、やがて弟子を育成できる
師匠イタコが姿を消した。最後の師匠イタコで
あった林マセ女は2000年代に亡くなり、
もう弟子を育成する術をもつイタコは
この世に一人もいない。

楠正弘の『庶民信仰の世界』によれば、
津軽イタコと南部イタコあわせて1970年代末で
イタコの数は約50名とされている。

それが1980年度の恐山秋詣祭で配布された
イタコ名簿によれば33名となり、
そこから1985年には23名となった。
高齢化や病気のため、死亡のために
不参加となる者が年々増えて、
恐山にやってくるイタコは2014年の段階で
わずかに3名だったという
(『「イタコ」の誕生:マスメディアと宗教文化』
  大道晴香著、弘文堂)。
近い将来、伝統的なイタコが消えることは明らかだ。

中村タケさんは2025年11月頃から
  体調を崩され、ホトケオロシが
  難しい状態になっているとのことです。

 

 

 個人的にイタコや恐山を知ったのが

  1970年代・小学生の頃。

  当時、S館で出版されていた

  少年雑誌で読んだ記憶がある。

  それから40年以上経って

  三沢の寺山修司記念館に立ち寄った時、

  生前の寺山氏が脚本・撮影した映画が

  館内で上映されていて、その中に

  恐山がロケ地として映し出されていた。

  因みに主演の少年役は後に

  トレンディドラマで活躍する三上博氏。

  それがきっかけで、翌日、恐山に向かい、

  実際、賽の河原を視察して来た。

  確かにイタコと呼ばれる人はいなかったが、

  硫黄の匂いが立ち込める殺伐とした光景で、

  積み上げられた石を今にも鬼が現れて

  蹴散らして行くんじゃないかと思わせる。

  高齢化が進み、後継者がいないので、

  イタコはもはや風化した都市伝説に

  なってしまうのだろうか…。

  スピチュアル系に興味がある人は

  尋ねてみるといい。

スケジュール

大道芸人バスカータンプ
週末の予定




春休み
はたらく車大集合



日時 3月28日 土曜日
   10:00~16:00


場所 ぽぽろっこ
   由利本荘市岩谷町西越36


内容・消防車や除雪車、ミニバックホー、
   高所作業車、クレーンなど、
   働く車が一同集結。
   乗車体験あり(消防車は13:00で終了)
   展示車はすべて撮影可能です。


  JAFこども免許証発行
   参加無料
   小学生以下のお子様対象
   名前と写真入りで思い出にもぴったり!

   (12:00~13:00は対応をお休みします)

主催 ぽぽろっこ  後援 由利本荘市

協力 由利本荘市消防署 (株)ほくとう
   東北電力ネットワーク(株)
   一般社団法人日本自動車連盟





 当日は会場内で占い鑑定
  バルーンアートの実演販売を行います。
  (ぽぽろっこの
   中か外で行うのかは当日まで未定)

大金を巻き上げられエアガンで撃たれ
校長にも裏切られ…
今も14年前のいじめと戦う理由
「僕は自分を取り戻したい」


【佐賀・いじめ重大事態、
  報告書は26日に受け渡し】


集英社オンライン




女児にエアガンを向ける同級生を注意したことで、
中学校入学と同時にいじめの標的にされたという
佐藤和威さん。

大金を巻き上げられ、エアガンで撃たれ
「クリスマスまでには殺す」と殺害予告を
受けていた。

事態が動いたのは2012年10月23日。
加害生徒の一人が和威さんが金銭を
要求されていると担任に告げたことで、
和威さんへのいじめを学校側が
知ることになったのだ。

母は翌日、警察へ通報し、被害届を提出。
いじめの実態は教育委員会にも報告された。
しかし学校の対応はあまりにも杜撰だった。


 重度のPTSDと診断され、
 不登校を余儀なくされた


「学校側はいじめがあったことを
認めはしたものの、和威にも加害者にも
きちんと聞き取りを行なうことはありませんでした。

発覚の2日目から連日、加害者とその保護者を
連れて名ばかりの“謝罪”に訪れては、
校長先生が生徒に『早く謝れ』と言うだけ。
加害者の親御さんの中には、
『お前の子どもが悪い』と激昂する人もいて、
これのどこが謝罪なのかという気持ちにもなりました」
(和威さんの母親)

和威さんも当時の心境をこう語る。

「加害者たちからは
『いじめがバレたら母親や妹に危害を加える』
と言われていたので、パニックに陥ってしまって。
謝罪に来る加害生徒と顔を合わせないよう、
2階の部屋に籠るしかありませんでした」

謝罪に訪れる加害生徒から母親が聞き取る中で
明らかになったいじめに関わった生徒の数は、
およそ13名。

クラスの男子生徒が15、16名ほどだったことから、
クラスメイトのほとんどが大小の差はあれど、
何らかの形でいじめに関わっていたことになる。

母親からの通報と被害届を受けた警察も
加害者に対して聞き取りを行なっており、
その結果、主犯格5名が児童相談所へ
通告されている。

学校側はこうした加害生徒に対し、
部活動の参加停止や別室登校、
「更生プログラム」を実施するなどの対応を実施。

一方の和威さんは、いじめ発覚後から
フラッシュバックに悩まされるようになり、
主治医から重度のPTSDと診断され、
不登校を余儀なくされた。
和威さんの症状は進級しても改善することはなく、
学校に行けない状態が続いた。

「いじめ防止対策推進法」が施行されたのは、
まさにその最中のことだった。
和威さんの代理人弁護士の辰巳裕規氏が解説する。

「いじめ防止対策推進法は
 2013年9月に施行されました。
 この時点ですでに和威さんへのいじめは
 終わっていましたが、いじめの影響による
 和威さんの不登校は続いていました。

和威さんの受けたいじめは『重大事態』に該当し、
第三者委員会を設置、調査しなくてはならない
事案でしたが、鳥栖市は和威さん側の要望を認めず、
代わりに調査権限のない『いじめ問題等支援委員会』を
設置するに留まりました」

いじめ防止対策推進法では、
生命・心身・財産に重大な被害が生じた疑い、
または相当期間(目安30日)の不登校を
余儀なくされた疑いがあるケースを
「いじめ重大事態」とし、学校や教育機関に対し、
 速やかに調査組織を設け、事実関係を
 調査することを義務づけている。

和威さんの事案はこの要件を満たすはずだが、
その後も鳥栖市は「重大事態」の対象と
認定・調査をする姿勢を見せず、学校側の
責任についても「気づくのは不可能だった」と
否定するばかりだった。



 中学の校長が裁判で
「エアガンはデコピン程度の痛み」

 と主張

和威さんはこうした市の態度について、
「きちんとした対応ではない」と感じ、
 卒業後の15年に元同級生8人と保護者、
 鳥栖市を相手取り約1億2800万円の
 損害賠償を求める裁判を開始した。

「裁判で驚いたのは、中学の校長が
『エアガンは撃ち合いごっこ』に
 使われるもので、当たっても
 デコピン程度の痛みしか感じず
 ケガをしないと主張してきたことです。

裁判資料として、校長が弁護士の背中に
エアガンを撃つ写真も提出されましたが、
そもそもエアガンを人に向けて撃つこと
自体が問題です。

それに僕が向けられたエアガンは改造されていて、
厚手の生地のジャージを着ていても、
強い痛みを感じていました」

2022年7月に確定した判決では、
相手側の不法行為の大部分が認められ、
元同級生8人に合計約400万円の支払いが
命じられたが、鳥栖市の責任やいじめによる
PTSDの発症は認められなかった。

和威さんはこの判決に、今も疑問を抱き続けている。

「いじめは学校の教室の中で、
 日常的に行われていました。
 当時、僕は加害者から給食を
 ほとんど食べさせてもらえない状況でした。

先生が『給食を取るのはダメ、でも交換ならいい』
と言うので、加害者は僕に嫌いなものだけ押しつけ、
ほとんどの給食を奪っていった。

現在、僕は過食を繰り返して、
中学時代から20キロ以上体重が増えてしまいました。
『食べさせてもらえなかった』過去を忘れるためには、
食べるしかないんです」



「僕はただ、佐藤和威を取り戻したい」
 報告書の受け渡しは3月26日


PTSDについては、当時の主治医が国際的に
評価が高いPTSD症状評価尺度によるテストを複数回実施。

いずれも高い点数が表れたため、重度のPTSDと
診断した経緯が裁判の陳述書にも示されていたが、
認められなかった。

しかし高校時代の教師は、後遺症に苦しむ
和威さんの様子を、裁判に提出した書面に
このように書き記している。

《1年生の教室が5階にあり、
 窓側に寄せていた机といすに上り飛び降りようとし、
 教員がとめた》

《空き教室にいて「どうしたの?」と聞くと、
「ひとりでいるとわからなくなる。
 大勢の『死ね』という声が聞こえる」と、
 顔面蒼白で震えているときもありました》

不満の残る結果となったものの、
この裁判の判決を受け、鳥栖市教育委員会は
22年末、11年越しに和威さんの事案を
「重大事態」と認定し、23年に調査委員会を設置。

和威さんはこれを受け、
「佐藤和威を取り戻すため、こういう被害を
 少しでも減らすためにも、機会があれば
 自分なりに声を上げていきたい」と語っていた。

それからおよそ3年、報告書の受け渡しを前に、
今もその気持ちは変わっていない。

「僕はただ、佐藤和威を取り戻したい。
 しかし今も、当時の記憶がフラッシュバックして、
 体が動かなくなってしまうことがあり、
 日常生活がままならない状況です。

あの時何があったか、僕はどうしたらよかったのか。
本当に、学校や市に責任はないのか。
その答えが出ない限り、前には進めない」

和威さんの代理人を務める辰巳弁護士も、こう語る。

「学校がいじめをなぜ早期発見できなかったのか、
 あるいは発覚後に学校が行なってきた対応は
 適切だったのか。
 今後、同じような事件が起こることを防ぎ、
 今も苦しむ和威さんとそのご家族の救済に
 資するような報告書が提出されることを願っています」

報告書の受け渡しは3月26日、鳥栖市役所で行なわれる。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

 

 

 数十年前から校内でのトラブルのひとつに

  数えられていたのが「いじめ問題」。

  しかし、いじめと言っても、実際は

  いじめを受けた本人には精神的・肉体的苦痛を

  受けることになり、これは立派な犯罪行為である。

  いじめている相手も周囲の人たちもいじり

  思い違いしていることもあり、とんだ誤解だ。

  相手を思いやるフォローもないと暴力に等しい。

  学校サイトも何かトラブルがあったら

  「事なかれ主義」が発動し、事件の真相を

  真剣に取り組んだり解決しようと

  しないことが多々ある。

  段ボール板を打ち抜く威力がある程のエアガンを

  デコピン程度と語る校長の回答は間違っている。

  未来のある生徒たちより自分の保身を第一に

  優先するのなら、絶望的。

  こんな大人には任せられないし、

  こんな大人にもなりたくない。
 

いじめ実名顔出し告白
13歳は人殺しても捕まらんから」と
改造エアガンで撃たれ続けた
26歳男性の地獄…
刃物を目に突きつけられ
常に命の危険を感じてました


集英社オンライン




「あの時、僕はどうしたらよかったのか。
  その答えが知りたい」。

そう語るのは佐藤和威さん(26)。
2012年に佐賀県鳥栖市内の中学校で
複数の同級生からエアガンで撃たれる、
刃物を突き付けられるなどのいじめを
受けた被害者だ。

当時、学校や市に対して再三にわたり
「いじめ重大事態」と認め調査することを
求めたが、しかし受け入れられることはなく、
2015年に同級生8人とその保護者、
鳥栖市を相手取った訴訟に踏み切った。
2019年の判決では具体的ないじめ行為が
認定されている。


 善意が引き金になった、
 いじめの始まり


止まっていた時計の針が動き出したのは、
事件から10年以上が経った2022年末のことだ。
鳥栖市教育委員会は和威さんからの申し入れを
受け、ようやく事件を「いじめ重大事態」と
認定。

第三者委員会による調査結果が、
今月26日にも和威さんに手渡される予定だ。

集英社オンラインではこれに先立ち、
和威さんに独占インタビューを行なった。
壮絶ないじめの記憶、そして今も残る
心の傷について、3時間にわたり語ってもらった。

「あの時は、毎日が地獄でした」

和威さんは、いじめを受けていた
約半年間の日々をそう振り返る。

小学生時代はよく笑い、活発で、
勉強にもスポーツにも前向きだったという
和威さん。和威さんによると、加害者たちから
いじめのターゲットとして目をつけられたのは、
中学校入学を控えた春休みに起こった
「ある事件」がきっかけだったという。


「その日、サッカーをしようとグラウンドに
  向かっていると、小学校の同級生のA君が
  3歳の幼い女の子にエアガンを
  向けているところに遭遇しました。

僕は注意し、止めようとしたのですが、
A君は撃つのをやめなかった。
女の子は泣き出し、耳をつんざくような
悲鳴が響きました。

駆けつけた女の子のお母さんに起こったことを
説明すると、A君は僕に向かって一言、
『いい人ぶりやがって』と。
後から知ったことですが、A君はこのことで
小学校から呼び出され、女の子の家に
親御さんと謝罪に行ったそうです」

和威さんがAと再会したのは、
中学校の入学式のことだ。

同じクラスに振り分けられ、クラスメイトと
なったAが和威さんに向けたのは、激しい敵意と
暴力だった。

「A君は僕に『お前、チクリやがったな』と
言って、突然、太ももを蹴るといった暴行を
加えてきました。

それまで人から暴力を受けたことなど
なかったので戸惑うと同時に、エアガンで
撃たれていた女の子の悲鳴を思い出し、
僕も同じ目に遭うのではと恐怖に駆られました。

実際にそれ以降、A君は連日、
僕にエアガンを向け、『金を持ってこい』
などと脅迫するようになりました」


 エアガンで追い回すようになった
“兎狩りロード”


Aのお門違いの恨みから始まった、
和威さんへのいじめと脅迫行為は、
他のクラスメイトにも伝播していったという。

「A君だけでなく、他の生徒たちも
『あいつに金を渡したなら、俺にも寄越せ』と
要求してくるようになりました。
最初にA君たちに渡したのは、1万円以上。
それを6人の生徒で分け合っていました。

彼らは学校帰りにホームセンターに寄ると、
僕の渡したお金でエアガンを買い、
帰り道で僕を撃ってきました。
彼らはそのホームセンターに続く道を、 
“兎狩りロード”と呼び、僕を標的にして
エアガンを撃ち、追い回すようになりました」

しかし、和威さんはこうしたいじめの事実を
家族に伝えることはなかった。
なぜならこの時、和威さんの家庭は
特殊な状況に置かれていたからだ。
和威さんはこう振り返る。

「2月に母が脳梗塞を発症し、
 入院していたのです。
 病気の母にはもちろんのこと、
 仕事と家庭のことでいっぱいいっぱいの
 父に心配をかけることはできない。
 妹もまだ小学生で、相談なんてできない状況でした」

当時、毎日のように加害者に連れ回され、
ホームセンターやゲームセンター、飲食店などで、
加害者に代わって金銭を支払わされていたという
和威さん。

次第に帰りが遅くなる息子の姿に、
最初に疑問を抱いたのは父だった。

「はじめのうちは、中学生になったら
そういう付き合いもあるのかと思っていましたが、
8時、9時とどんどん帰りが遅くなる。
『7時までには帰ってきて』と約束しましたが、
  守られることはありませんでした」
(和威さんの父親)

入院中の母も、
見舞いに来る息子の様子から
異変を感じ取っていた。

「あんなに明るかった和威の表情が
  段々と暗くなっていく。
『学校に行きたくない』、
『5月の宿泊訓練にも行きたくない』と
言うけれど、理由を尋ねても話さないんです。

学校で何かあったのではないかと思い、
担任の先生にも電話しましたが、
『いつもニコニコ元気な和威くんですよ』
としかおっしゃらない。

『そんなはずはないのでは』と思いながらも、
  入院中で身動きが取れず、それ以上踏み込んで
  聞くことができませんでした」(和威さんの母親)


「常に命の危険を感じ、
 心が休まる時間がありませんでした」


担任教師は和威さんの置かれた状況を、
本当に把握していなかったのだろうか。
そう尋ねると、和威さんは目を伏せ、
首を振ってこう答えた。

「僕が教室の後ろの方で暴力を受けているとき、
  何度か先生と目が合ったことがありました。
  けれども、先生は見て見ぬふりで、
  止めようとはしてくれなかった。

のちの裁判で、先生はその光景を
“じゃれあい”とか“プロレスごっこ”と
思っていたから止めなかったと
おっしゃっていましたが、その時の僕は、
『いじめを見ても何もしてくれないなら、
  話しても無駄だろう』と絶望してしまった」

加害生徒たちが担任を「オモチャ」と
呼んで見下し、「チクっても無駄」と
言っていたことも、和威さんが学校側に
いじめを相談することをあきらめた
要因の一つとなった。

和威さんが誰にも助けを求められない状況下で、
学校内でのいじめは度を超えたものに
変貌していったという。

「加害者生徒たちはエアガンを
  学校に持ちこむようになり、
  教室でも僕を撃ち始めました。
  床に散らばるBB弾を、
『お前が拾わんと、バレるやろうが!』と
拾わされることもありました。

カッターナイフやハサミなどの刃物を
目や首元、腕などに突きつけられたり、
技術の時間には、ノコギリを8の字に
振り回しながら迫ってきたりすることもあった。

彼らは、
『13歳は人殺しても捕まらんのやけん』
とも言っていました。
学校の中でも外でも常に命の危険を感じ、
心が休まる時間がありませんでした」

のちの裁判でも事実関係が認められた、
こうした凶悪ないじめ行為の数々。
だがそれも、和威さんが経験した地獄の
ほんの一部に過ぎない。
夏休みを境に、加害者たちの言動は
さらに凄惨さを増していった。
 

つづく